AFTER POST OFFICE.

House for boxesで考えたこと#1

文章 山地大樹

01_宙吊りにされた体験

幸運にも4人家族の住宅を設計する機会をいただいた。クライアントは建築の雑誌を見ることを趣味としている相当な建築好きな男であった。特に日本の住宅建築に興味があるようで、初めての会議の際には、篠原一男の『白の家』と坂本一成の『散田の家』の写真を机の上に並べて、これらの住宅を超えるような新しい住宅を考えて欲しいと言った。彼のこの言葉はこれからの住宅を変えるような新しい形式の住宅を提案して欲しいという強いエールのようであった。家族や友人らが集まれる広い場所が欲しいということが唯一の要望である。このクライアントを納得させるような新しくかつ美しい設計をしなければならない。敷地の条件や大きさから、大きなワンルームにいかに部屋や機能を配置してゆくかということを考え、幾つもの案を作成して提案をする。幾つもの案の中から良いところを拾い上げ、悪いところを無くして、最適なものを選択してゆくのが通常の設計のプロセスであるが、今回は違うプロセスをとることとなった。なぜかというと、簡易的な動かせる模型を作成し、何度もクライアントと良い点や悪い点を話していくうちに、その設計行為自体をクライアントが望んでいるように感じたからである。彼は「ここをこうした方が良い」とか「ここはこうした方が美しい」と模型を動かしながら言うが、模型で詳細を決めてゆくと「これは違う」という。彼はずっと模型を動かし続けていたいのだ。設計された家にすみたいのではなく、設計する主体でいたいのだ。このプランを決めるという体験をずっとしていたいのだ。そう考え、プランのないプランを提案することにした。

02_空間をしつらえる装置

大きなワンルームの中で小さな箱が動き続けるというプランを持っていった時に、彼はとても驚いた顔をして「これが求めていたものだ」と言った。やはり、彼は作られた空間ではなく、自身が作る空間を求めていたのだ。しかし、設計者としては秩序だった美しい風景を作らなければならないという使命があり、完成されない風景を提案しようとしていることへの不安が常につきまとった。プラン自体をどう美しく変化させることができるのか。初めは引き戸という装置に注目した。トーマス・リートフェルトはシュローダー邸の2階において引き戸を利用し、ある時にはワンルームの空間を作り出し、ある時には4つの別々の空間に分割するということを実践した。引き戸を用いることで住まい手は空間をコントロールできる。しかし、引き戸という装置は、ある決まったレールにしたがって動くという点において、建築家の強い意志が反映されてしまう。一方で、平安時代には「しつらい」をするというという行為が一般的であった。平安時代の貴族の邸宅は寝殿造りという様式で、壁や建具で仕切られた塗籠という閉鎖的な部屋を除いては、丸柱が立ち並ぶだけ区切りのないワンルームであった。そこで、日々の生活や季節の変化や行事祭礼の内容に応じて、屏風や御簾、几帳、衝立、畳、円座などを用いることにより内部を仕切り、空間を演出する「しつらい」をしていた。空間をしつらえることは、日常の変化や風景を自身の力で捉え直し、生活を豊かにすることである。「しつらい」という行為は、住空間に当たり前のように存在していた自由な体験であったのだ。日常を時間の中で変化させ、目的に合わせて場を用意するという当たり前の体験をいつから忘れてしまったのだろう。「しつらい」は単なる「インテリア」という言葉に回収されて、いつからか建築から切り離されてしまった。シュローダー邸の引き戸のように空間をイメージ通りに操作する道具ではなく、日常をしつらえる当たり前の体験を提供する装置としての箱を作りたい。そうした箱が美しくプランを変える装置となれば良い。 箱で空間をしつらえている画像
fig. 空間をしつらえる装置としての箱

03_他者を存在させる箱

箱を家族の人数分の4つし、家族が1人あたり1つの箱を所有すると説明した時に、彼は「箱が邪魔になったらどうすればいいのだろう」と言った。これは純粋で興味深い言葉だと、今になると思う。彼は、彼以外の家族の箱の異物性を敏感に感じ取ったのだろう。この異物性は他者の存在なのである。彼自身の箱は簡単にコントロールできるが、彼の妻の箱を勝手に動かすときには、妻の存在を感じる。例えそこに彼の妻が、そこにいなくても。1人が1つの箱を所有し、その所有された箱が空間に影響を与えるということは、確かに家族4人がそこに存在していることの証明であり、自分がコントロールできない箱が家の中に転がっているという奇妙な現実が他者の存在を否応にも意識するきっかけになる。いわば、箱というモノを通すことで家族の存在を再認識することができる。同棲しているカップルが、歯ブラシが2つ置いてあることを通して愛を確認するように、大切な存在はモノを通して意識される。目に見えないものは、目に見えるモノを通して認識されて、目に見えるモノが確からしいと気づく。こうした他者の所有物が当たり前のようにある生活は、いまの住宅にはあまりない。個室が家族に割り当てられるのが、慣習的な住宅の作り方になってしまっているからである。個室の中では誰にも干渉されずに好きな時間を過ごせるし、個人の好きなモノだけをおくことができる。各々の個人の部屋の中では、他者という存在が徹底的に排除されている。一方で、リビングやダイニングには、共用で使えるモノを置き、個人の所有物は基本的に置かない。他者の存在を他者のモノを通じて意識するならば、個室と共用部を分離する慣習的な住宅では、他者の存在には気がつかないことになる。それは不健康な状態だと思う。個人の所有物を当たり前のように許容する態度が求められることはいうまでもない。それは、プライベートを放棄することではない。個室という隅々までコントロールされた部屋ではなく、家族の所有物である箱が当たり前に転がっていて、それとの距離を自分で見つけて対応していく。その時に、コミュニケーションが起きたり、他者の存在を感じたり、そして最後には自分が存在していることに気がつくのではないだろうか。だから、家族という他者を存在させるための箱を用意する必要がある。そして、この箱の持ち主は箱を通して主体と客体の逆転現象に巻き込まれる。はじめは箱を動かすという主体であるのだが、自身が動かした箱が目に見える形で放置されるがゆえに、今度はその箱に影響されるという客体になる。その時に、はじめて存在を強く意識するだろう。
山地大樹 / Daiki Yamaji
essay / 2020
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House for boxesで考えたこと
01  House for boxesで考えたこと#1
宙吊りにされた体験 /  空間をしつらえる装置 /  他者を存在させる箱
02  House for boxesで考えたこと#2
空が見える隠れ家への変身 /  風景を揺らがせる鏡 /  隅っこと開けられる監獄 /  箱を動かすあなたという存在
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