AFTER POST OFFICE.

House for boxesで考えたこと#2

文章 山地大樹

04_空が見える隠れ家への変身

箱の上の部分をロフトにし寝室にすると伝えると、彼は「朝起きた時に明るい光が入る寝室が良い」と言った。朝、太陽の光とともに起床することは、人間が持つ欲求の中でも大きな位置を占める。彼がこんな単純なことをわざわざ口にしたのは、この住宅のある仕掛けに気がついていなかったからである。この住宅には天窓が9つ設けられていて、箱を移動することでロフトが部屋のような広がりを持つ空間になるという仕掛けである。この住宅の中では部屋は与えられるものではなく探すものある。しかし、ただ探すというわけではない。この箱を移動して部屋を探すという行為の中に、天窓を部屋に変身させるという行為が含まれている。これは意味的な変身であり、探すという行為よりも面白い。豊かな建築は、巣のように作られたものではなく洞窟のように設計するべきであると例えられることがある。巣のように決められた場所にとどまることよりも、洞窟のように起伏に満ちた場所の中から好きな場所を発見することが重要であるという意味である。つまり、建築家が恣意的に作った空間の中に住むことよりも、草原の中で好きな木陰を見つけるように、場所を探す体験を誘発する余白のある空間の方が豊かであるということである。この洞窟の例えは秀逸であるが、ここには人間は探すことしかできないという皮肉が含まれている。人間は、洞窟の中で居心地の良い場所を探すことしかできないから、建築家は洞窟を作るのだ。こんな傲慢な態度が見え隠れしている。洞窟は洞窟であり、それ以外の何物でもない。しかし、人間はもっと創作的な態度を持った生き物である。人間が洞窟の中に秘密基地を作るように、洞窟の中に巣を作りだしたりする。その時、洞窟は洞窟としてではなく、巣の一部として使われる。洞窟は巣へと変身するのである。ある与えられたものは、人間の手によって意味が変化する可能性があるのである。もし住宅が閉じられた箱であるなら、閉じられた箱の中で空を探す部屋を作り出すとはなんとロマンティックなことであろうか。トップライトが部屋になる時に、大きな箱は洞窟から巣へと変身するのである。 トップライトに部屋を見出す人のダイアグラム
fig. トップライトが部屋に変身する時

05_風景を揺らがせる鏡

公園で本を読み、鳥のなき声を聞き、風景を愛している彼の顔は、住宅が閉ざされていることに不安を語っていた。彼は、自然が少し遠いことが怖かったのだと思う。そこで箱の1つの面に鏡を貼ることを提案した。鏡は反射を通して風景を2つにしてしまう。「いま—ここ」にある風景と、「いま—ここ」でない風景である。人間が風景そのものを変えることには大きな手間がかかる。だから、日本建築では借景という手法が多く用いられた。自然や風景はいつまでも外部であるから人間の手で変化させることは難しいという前提があった。本当に変化させることはできないのだろうか。「いま—ここ」にある風景という外部を変化させることはできなくても、「いま—ここ」でない風景という外部は変化させることができる。つまり、箱に貼られた鏡に映った風景は持ち運び可能であり、編集が可能なのだ。鏡に映った風景は、鏡という小さなキャンバスの中に描かれたものであるから、カメラの向きを変えるように運ぶことができ、画像に何かをコラージュするように編集することができる。そして、恣意的に編集された風景が、別の鏡にとっての手の届かない外部になる。「いま—ここ」にある風景は、鏡が貼られた箱という媒体によって、「いま—ここ」でない風景へと変化し編集されて運ばれてゆく。運ばれた風景は、また別の鏡に映り込み、違う風景へと変わりゆく。「いま—ここ」の風景の現前性を強調するのではなく、風景が写り込んだ箱を動かすという可能な限り単純な体験によって、「いま—ここ」という時間と場所は儚く消えゆくものと認識され、風景そのものが揺らいで夢の中のような質を持つのである。風景は空間になり、空間は風景になる。もはや編集不可能な外部はどこにあるのか分からなくなり、遠いのか近いのかも分からない。風景を編集した体験だけが確からしい。

06_隅っこと開けられる監獄

プライベートを作らなければならないという幻想が世間に蔓延していることに彼は気づいていない。個室は閉じられていなければいけないと考えられている。住宅のプライバシーを作り出すために、部屋を囲って堅牢な鍵をつけるということが行われているが、それは監獄と同じ考え方なのである。監獄と住宅の違いは、個室のドアを内側から開けることができるかどうかである。監獄では内側からドアを開けるとということは、囚人の自由を許すことであり、決して許されない。個室のプライベートとは、内側から扉を開けることができるという動作が保証されて初めて居心地が良くなり、そうでなければ途端に息がつまる概念なのである。もし、開けるという体験が自由であるということに密接に結びついているのであれば、開けるという体験をより膨らませると自由が増幅する。空間を開けることは可能なのだろうか。ドアという概念にとらわれると、空間を開けるという動作はドアを開けるという当たり前の所作に集約されてしまう。ドアを使わずに空間を開けるにはどうすれば良いのかを考える。かつて、フランク・ロイド・ライトは箱の解体を唱えて豊かな空間を生み出した。彼は、開けるという動作に潜む自由を、ものの見事に空間の問題にすり替え、開ける自由を空間として演出してしまったのだ。これは革命的であり、人々は熱狂することになる。しかし、箱の解体では「空間を開ける」ことはできても「空間を閉じる」ことができない。箱は解体されても、箱をもとに戻すことはできない。「開ける」ことと「閉じる」ことは対概念であるから、「開ける」自由が保証されるためには「閉じる」自由が保証されなければならない。 そこで正方形の平面の隅っこに注目することにした。隅っこが落ち着くのは、壁に良い塩梅で囲まれているから、いつでも「閉じる」ことができ、いつでも「開ける」ことができるからである。この住宅では隅っこに、エル字型の机を配置し、個室のような空間を演出した。箱を動かすことで「空間を閉じる」ことができ、箱を動かすことで「空間を開ける」ことができる。隅っこの空間は、開けることと閉じることが同時に保証されているから、自由で居心地が良いのである。 隅っこのエル字のデスクと箱の関係
fig. 隅っこの空間と箱の関係性

07_箱を動かすあなたという存在

基本設計が終わった段階で彼はこの住宅ができるのが楽しみで、早く箱を動かしたいと言った。この住宅は、閉じられた大きな箱のなかに小さな動く箱を4つ入れるだけで、想像もできない程の多様な体験を生み出す。住まい手は、空を探したり、個室を作り出したり、部屋を大きくしたり、風景を転がしたりする。これは建築家によってあらかじめ決められた予定調和な体験ではなく、この住宅の中で住まい手が発見していくものである。閉じられた大きな箱と動く小さな動く箱は、お互いに独立しながらも共存して、住まい手の体験によって、意識の中にうっすらと全体性が生まれていく。現象としては常に中心や構造があるわけではない。それを保証するのは、箱を動かすという体験と、その体験をしているあなたという存在なのである。
山地大樹 / Daiki Yamaji
essay / 2020
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House for boxesで考えたこと
01  House for boxesで考えたこと#1
宙吊りにされた体験 /  空間をしつらえる装置 /  他者を存在させる箱
02  House for boxesで考えたこと#2
空が見える隠れ家への変身 /  風景を揺らがせる鏡 /  隅っこと開けられる監獄 /  箱を動かすあなたという存在
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