AFTER POST OFFICE.

UTATAで考えたこと#1

文章 山地大樹
この文章は、『UTATA -空間と体験の記録-』という本に所収されたテキストを一部改変して転載したものです。本はこちらのページから読むことができます。

01_はじまりの螺貝が響いて

音楽祭の空間構成の依頼を受けた。その時は、この企画がこんなにも刺激的なものになるとは思わなかった。建築は器であり、音楽が中身であるから、建築にできることなど少ないと思っていた。しかし、パフォーマーや様々な人の意見を聞いてゆく中で、彼らの望みはある状態の構築であると分かってきた。その状態とは、観客も演者も溶け合い、皆で星空に浮かんでいるような、ある種のトランス状態である。なかなか挑戦的なイベントである。観客と演者を溶かして、トランス状態を誘発するような空間を、いかにして設計できるだろうか。誰もが演者になり誰もが観客になるような、新しい空間形式が可能であるならば、なんて素敵なことだろう。僕は直感的に盆踊りを思い出した。もし、ロラン・バルトが盆踊りをみたならば、空虚な中心があるというだろう。やぐらの周囲を皆で回る構造は、皇居の周りをグルグルと回る構造に似ている。そこには空虚な中心があるのだろうか。思索を重ねる中で、この「回る」という体験自体がとても本質的である気がしてきた。「回る」という体験は世界中に潜んでいる。国生みの神話、皇居、山手線など挙げてゆくとキリがない。空間を設計する人間としては、不在の中心などの物理的な言葉のイメージがあるとやりやすい。しかし、今回は物理的な概念への思考を停止させ、ただ「回る」という体験に焦点を当てて、「回る」という体験に空間の全てを注いでみることにした。「回る」という体験をオーバードライブして、一つの空間を設計することは可能なのか。そこで、大きな鏡貼りの円柱をクラブの中心に置くことにした。ミシェル・フーコーをあげるまでもなく、空間は一つの権力である。円柱がクラブの中に差し込まれるだけで、人は引き込まれるようにグルグルと回りはじめるのではないかと思った。低予算で作られたガタガタの円柱は、音楽祭が始まる直前までは、どこか見すぼらしく頼りない印象であった。ただ、はじまりの螺貝の合図が響き、音楽が鳴り、光が飛び交い、皆がグルグルと回り出した時、その頼りない円柱は、意識の中で完全な円柱として現象した。そうして回っているうちに、観客も演者も溶け合って、夢の中のようなトランス状態へと放り出された。「回る」という体験によって、身体が共振しあうような不思議な感覚であった。音楽祭が終わり、火照った身体が冷めた時、記憶の中にはあの銀色の円柱だけが残っていた。この文章は、その空間と体験の記録である。

02_空間構成と音楽祭概要

会場の空間構成は至ってシンプルで、約7m角の一般的な箱の中心部に、直径約2mの鏡貼りの円柱を差し込むだけである。会場内部のルールとして「必ず反時計回りに回る」ことを設定した。このルールだけは、演者にも観客にも平等に周知した。このルール以外は、立ち止まっても、踊っても、歌っても、絵を描いても、声を上げても、何をしても良いというコンセプトである。円柱の直径を決める際には最新の注意を払った。円柱のこちら側にいるときに、円柱のあちら側の風景が隠されるような、絶妙なサイズ感と位置を現場にて検証した。箱と円柱の隙間には幾つかの仕掛けを施し、円柱の外部に多様な場面を作り出すことを考えた。ある面のプロジェクターには、観客の一人に持たせたビデオカメラの生の映像をそのまま投影する。その映像にインスピレーションを受けて、音楽や踊りが生み出される。「いまここ」の目の前の風景と、「いまここ」が映し出された風景が、回るという主体的な体験によって統一され、構造連関の中で生成変化する「いまここ」が作りあげられることを期待した。ある面には大きな白い紙を貼り、裸のままの絵の具をそっと置いた。この白い紙には、演者による即興のボディペイントや、観客による筋書きなしの落書きが施され、偶然の光と瞬間の影が切り取られて、回るたびに違う絵画へと変化する。差異の戯れの絵画というよりも、回るという体験によって統一され、鑑賞者の意識上に現象する確からしい全体性としての絵画を期待した。ある面には、この場所を静止して見れるように、休憩用の椅子を用意する。この椅子に座ると、流れるプールの監視台にいるように、人と出来事が次々と流れてくる。この空間内では、円柱という装置が強い秩序で存在しているため、回り続けることが正常であり、止まってはじめて自身がいた場所が舞台であることに気が付く。半時計回りの流れという慣性の法則が、内面化された規律として働きだしている。流れの中で静止するという現象を体感したかった。これらの空間と音楽祭の仕組みを設計した後、騒々しく無秩序なカオスになることへの恐怖と、予想外の身体やハプニングへの好奇が同時に襲ってきた。鏡の円柱を回るという体験は、僕たちをどのような未知の世界へ連れ出してくれるのだろうか。 utataの音楽祭のアクソメ図
fig. 会場の空間構成図

03_歪曲された身体と自己

僕が左を向くと、円柱の中に閉じ込められた〈僕みたいな像〉は右を向く。円柱を周り続けている間、鏡の中に存在している〈僕みたいな像〉は常に僕をエスコートし続ける。僕は円柱を回る体験をしているうちに、歪曲した〈僕みたいな像〉が僕であると気が付く。ジャック・ラカンによると、僕たちは生後6ヶ月から18ヶ月の期間の中で、鏡像の中に自分と同一視できるものを見つけ、統一された自己を先取りするという。寸断された身体を想像的に先取りして、統合された全体を手に入れようとするらしい。円柱をとても長い時間にわたって回り続けていると、身体がズラされていくような感覚が襲ってきた。回り始めた時には、ただの鏡に写っている歪曲した〈僕みたいな像〉でしかなかった。時間が流れるにつれて、左側の〈僕みたいな像〉が僕自身であるのではないかと気が付き始める。さらに回っていると、〈僕みたいな像〉が僕の中に入り込んできて、歪曲した〈僕みたいな像〉は僕の身体に内在化され、統一されてゆく。〈僕みたいな像〉が横を歩き続けるから、歩いている僕も歪曲してゆく。ラカンがいうように、鏡像という外側との関わりあいの中で自己が形成されるならば、僕の身体は歪曲してしまったのだ。ここでの発見は、統一された自己が形成される時に、鏡や他者といった外的な装置だけではなく、〈僕みたいな像〉と共に回るという体験そのものが、自己の統一化のプロセスを大きく加速させることにある。この短時間で自己の統一化のプロセスが完了したならば、回るという体験がそのプロセスの触媒となったとしか考えられない。統一された自己を先取りするプロセスは体験によって加速される。ともすれば、鏡による「見る-見られる」というような単純な主体と客体の反転ではなく、鏡による効果を前提とした回るという体験を設計することで、自己の統一化のプロセスを加速させることができるのではないか。鏡の先にある体験に焦点を当てることで、身体や自己に揺さぶりをかけることができる。この揺さぶりが、僕らをトランス状態へ導く鍵なのかもしれない。もし自己や身体が殻にこもりはじめたら、深く考えずに他者と回ってはどうだろうか。その体験を通して自己や身体は変化してゆくのだから。 自己と他者の図
fig. 体験を通して自己が内在化されてゆく

04_回る体験の位相

この音楽祭に用いられた空間構成は、2020年に著者が設計したアーティストのための別荘である〈House for tube〉という住宅を〈変身〉させたものである。音楽祭と住宅にどのような関係があり、なぜ〈変身〉が可能なのか。かつて、建築家の篠原一男が「すまいというのは広ければ広いほどよい」と述べたのは、敷地の大きさという不確定な要素に立脚して建築が設計されることに異を唱えたからである。建築の普遍性は、敷地の大きさやビルディングタイプや施主などの不確定に変化する条件によって、簡単に左右されてはならない。建築の普遍性を思考するのならば、人間の生命との関わりあいの中で生まれる空間を考える必要がある。その関わりあいの中で生まれる空間に可能性があるならば、その接点は〈体験〉しか残されていないのではないか。〈House for tube〉では、住宅の真ん中に鏡貼りの円柱を設け、住人たちが筒の周りを回る体験を通して、住民たちの頭の中に変様しゆく生活や日常の全体性が浮かび上がってゆく。〈UTATA〉では、住宅の真ん中に鏡貼りの円柱を設け、観客と演者たちが筒の周りを回る体験を通して、彼らの頭の中に一体感や全体性が浮かび上がってゆく。この2つのプロジェクトには共通点がある。鏡の円柱という物理的な形式が共通しているということを述べるつもりはない。円柱は四角錐でも三角錐でもよかった。鏡は石でも木でもよかった。鏡の円柱という物理的な形に執着したのは、建築家としての美学と直観であり、作家性と恣意性の話である。それゆえ、理性的な説明を試みようと、論理をいくら並べ立てても説明し尽くせない。ただ、僕を惹きつけて止まない普遍的なものは、グルグルと回るという〈体験〉そのものである。建築家の菊竹清訓は「柱は空間に場を与える」と述べた。出雲大社は柱が中心にある田の字型プランであり、柱そのものが本質的であるように見える。しかし、柱一つで人間が回りだすことの方が根源的であると思う。回るという〈体験〉の位相から考えると、世界に一本の補助線を引くことができる。皇居、出雲大社、陸上トラック、国生み神話、山手線、ディズニー、パンテオン、ピラミッド、アクロポリスなど。回るという〈体験〉は、日常に身を潜める普遍的なものであるとしか思えない。 housefortubeとutataの平面図
fig. 平面図の比較、House for tube(左)/UTATAの平面図(左)
山地大樹 / Daiki Yamaji
essay / 2020
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UTATAで考えたこと
01  UTATAで考えたこと#1
はじまりの螺貝が響いて /  空間構成と音楽祭概要 /  歪曲された身体と自己 /  回る体験の位相
02  UTATAで考えたこと#2
体験によって現象する幾何学(1) /  体験によって現象する幾何学(2) /  即興と共鳴 /  共振エネルギーと空間の孔
03  UTATAで考えたこと#3
絵画の体験的統一 /  分割線の関係性 /  終わりに
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