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UTATAで考えたこと#3

文章 山地大樹
この文章は、『UTATA -空間と体験の記録-』という本に所収されたテキストを一部改変して転載したものです。本はこちらのページから読むことができます。

09_絵画の体験的統一

白いキャンバスには、鏡の円柱に反射して割れた光が映り込み、グルグルと回る身体のちぎれた影が落ちる。純色の絵具が気の向くままに載せられ、身体の重みによってキャンバスは切り裂かれる。この白いキャンバスには一瞬の風景が写し出されている。僕はモネを直感的に想起した。モネは自身の眼からみたリアリズムを徹底的に追求し、一瞬の風景を絵画の中に描き続けた稀有な画家である。彼は晩年にオランジュリー美術館に「水蓮」の部屋をつくる。この部屋は、楕円形が2つ並んだ平面を持ち、曲面に横長で配置された絵画に沿って、身体と視線を流れるように移動させる。鑑賞者は時刻によって切り取られた一瞬の睡蓮たちの場面を見ながら、グルグルと回ることによって頭の中に各々の睡蓮を描く。この部屋の睡蓮は、差異が重要なのではなく、体験によって統一された頭の中の像が重要である。それは、連作(シリーズ)ではなく循環(サイクル)である。この音楽祭でも、循環(サイクル)をかなり意識した。モネが睡蓮の意識上での統一を求めたように、この音楽祭の鑑賞者は、回る体験を通して何度も変様するキャンバスを目にし、自身の体験をもとに一つの絵画をつくりあげてゆく。確かにこの会場には一枚の絵画があった。例えば、この円柱を48週したからといって、そこに48枚の絵画があったわけではない。僕たちは、その48枚の絵画を頭の中で統合して、一枚の絵画を頭の中につくり上げている。その一枚の絵画は、人によって異なり、記憶の中に強く残っている。そして、強く記憶に残っているが、怖いほど曖昧である。その絵画は、確かに魅惑的な一枚の絵画であった。その絵画は、儚くも美しく、強く印象の中にある。ただ、その魅惑的な絵画の詳細は思い出せない。強くて弱いような絵画が頭の中には結ばれている。それは、花火のようである。強く印象に残っているが、うまく思い出せない。ナイアガラの滝のようであったとか、大きな花のようであったとか、いくら言葉で形容しても到底語りきれない。この音楽祭での一枚の絵画は、体験によって頭の中で統一され、強くて弱い、曖昧で豊潤なイメージとして記憶に残り、僕たちの世界を少しだけ広げてくれるようなものであった。 白い紙に映る光と影と絵具

fig. 回るたびに現れる一瞬の絵画

10_分割線の関係性
円柱を回っていると、僕たちの視界は半分になる。前を向いていると、鏡の円柱の端部が視野を二分割している。円柱の切れ端は、上から下まで垂直な直線として現象し、視野を分割する一本の縦線になる。左側には鏡に映る虚像が映り込み、右側には次々と移り変わる場面が現れる。僕は、ゼノンのパラドックスを思い出す。飛んでいる矢は静止しているというものである。飛んでいる矢は、瞬間によって切りとると静止している。もし時間が瞬間の集まりならば、矢は静止しているのではないかという考え方である。このパラドックスは、矢が飛んでいる時間を瞬間に分解し、瞬間を連続させることで現象を再現しようとすることへの違和感を提示している。僕は、瞬間という部分から全体をつくるには、矢が飛ぶというエネルギーが必要だと思っている。空間も同じである。空間を場面として分解し、場面を積み重ねたところで、空間の全体性が表現できるわけではない。僕らはこうした場面たちを、回るという体験によって統一して、頭の中に保存している。その保存された情報で統一されないもある。それは関係性である。円柱の切れ端の直線は左と右を分割していた。回るという体験の中で、その線の左側には鏡に移った風景が、その線の右側には切り取られた現実が飛び込んでくる。鏡のさかんな戯れと現実の多様な切断面が、体験によって複製され続ける。体験によって意味作用が解体され続ける中で、その直線の左と右を分割する役割だけは強化されゆく。その直線による関係性は体験によって強化されてゆく。それは旅に出る時の電車に似ている。目的地に向かう電車の中で、電車が動いているのか、窓の外の景色が動いているのか、ふと分からなくなる時がある。旅の終わりに電車の中の記憶を思い出す時、美しかったはずの景色と電車の中に座る自身の姿を想起する。そのイメージは、驚くほど曖昧である。窓の外の景色は、自身の今まで見てきた体験と重ね合わさり、実際の景色とは異なる。自身の姿もその時点の姿を正確に思い出すわけではない。ただ、その窓枠が、景色という外側の世界と電車という内側の世界を分けていたことは確かである。体験による統一のプロセスの中でも、場面の内部の関係性だけは崩れずに強化されるのである。 円柱の端と座っている人
fig. 円柱の端部により分割される風景

11_終わりに

新型コロナウイルスが蔓延して、世界は分断する方向へと向かっている。その分断から身を守ろうと、オンラインを通じてつながりを求めるが、どこか寂しさだけが募ってゆく。演者も観客も入り乱れ、盆踊りのような状態になるはずだったこの音楽祭も、最小人数と撮影スタッフ数人で行われ、映像や本の中にしか残らなくなってしまった。そんな状況下で行われた音楽祭であったが、音楽祭の直後に演者の水野雄一が口にした言葉が、とても印象的で耳に残っている。
「円柱を回っている時、咄嗟にみんなの姿が浮かび上がって、みんなと回っているような感覚が襲ってきた。回っているのは僕ひとりであるのに、そこに確かにみんながいた」
水野雄一
彼はそう言った。この言葉の真意は推測するしかできないが、僕はこの言葉がとても重要な気がしている。回るという体験が、みんなという亡霊を作りだし、彼はその亡霊と共に回っていたのだ。この音楽祭を通して確かに掴み取れたのは、回るという体験によって世界の厚みが増すということである。世界は思ったよりも分厚くて、僕たちはそれに気がついていない。大きな物語を失った僕たちは、どこか先の見えない閉塞感を抱えながら、小さな物語の中で寂しさに震えている。そんな時は一緒に回って見て欲しい。小さな物語が共振して、世界は途端に膨れ上がるかもしれない。その共振の圧倒的なエネルギーと熱狂が、僕たちをこの世界の構造から開放する扉を開く鍵になるだろう。少なくとも、僕はそう信じていたい。
山地大樹 / Daiki Yamaji
essay / 2020
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UTATAで考えたこと
01  UTATAで考えたこと#1
はじまりの螺貝が響いて /  空間構成と音楽祭概要 /  歪曲された身体と自己 /  回る体験の位相
02  UTATAで考えたこと#2
体験によって現象する幾何学(1) /  体験によって現象する幾何学(2) /  即興と共鳴 /  共振エネルギーと空間の孔
03  UTATAで考えたこと#3
絵画の体験的統一 /  分割線の関係性 /  終わりに
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