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UTATAで考えたこと#2

文章 山地大樹
この文章は、『UTATA -空間と体験の記録-』という本に所収されたテキストを一部改変して転載したものです。本はこちらのページから読むことができます。

05_体験によって現象する幾何学(1)

円という普遍的な存在が何処かにあるのかもしれないと思っていた。しかしこの音楽祭においては、回るという体験によって「円」が浮かび上がった。円という普遍的な存在は何処かにあるのではなく、体験によって浮かび上がるものではないのか。そこで、体験によって現象する幾何学に可能性を感じている。フッサールは現象学において、見えている世界を客観視することを停止し、全ての世界を括弧に入れて、意識上に現象する事柄の分析を行った。この円柱の全体像は見ることはできないが、僕たちは円柱の射影から「円柱」を経験している。この議論が建築設計者にとって素晴らしいのは、ガタガタした円柱を肯定してくれるところにある。完全な円柱をつくる必要などない。完全な「円柱」は頭の中に現象させればよい。では、いかにして「円柱」を現象させればよいのか。体験によって現象させればよい。「円」は体験によって現象する。つまり、「円」があるから回るのではなく、回るから「円」になるのである。この確信を得たのは、音楽祭が終わった後であった。歪曲した身体から見えた世界は、ユークリッドの幾何学座標ではなく、歪んだ座標系であった。その中でも、確からしい記憶は2つある。1つ目は回るという体験である。僕は確かにグルグルと回っていた。それは確からしい。2つ目は頭の中に現象している「円柱」である。僕は何を回っていたのかと問われると、それは円柱であると確信を持って言える。四角柱でも、三角柱でも、歪んだ円柱でもない。僕は円柱を回っていた。その頭の中の「円柱」は、ガタガタとした円柱ではなく、強く独立した完全な「円柱」である。回るという体験(赤の矢印)によって「円柱」が意識上に現象する。 回ることで現象する円の図
fig. 回ることで「円柱」が浮かび上がる

06_体験によって現象する幾何学(2)

メルロ・ポンティのセザンヌの絵画分析によると、感覚と知性の切れ目などなく、根源的な知覚においては触覚と視覚の区別はないという。僕もそう思う。世界は薄っぺらい紙の上の存在ではなく、もっと厚みがあるはずに違いない。その厚みは、回る体験によって現象した「円柱」の尺度に明瞭に表現された。回る速度によって「円柱」の直径が変化したのである。速い速度で回っている時には「円柱」の直径が小さくなり、遅いスピードで回っている時には「円柱」の直径は大きくなる。この感覚は主観的なものであるが、音楽祭の終了後に皆に尋ねると、皆も同じように感じたという。僕たちの体感する世界は、ユークリッド的な科学的な空間ではなく、個々人による内的な空間を持っている。内的な空間の振れ幅のある尺度は、回る体験の速度によって、ある程度は共有可能である。回るという現実の体験によって、各々の内的な空間の尺度を制御して、共有させることができる。ここに可能性を感じている。建築は物理的に固定されたもので、その尺度は不変である。しかし、もし体験によって内的な空間を制御し共有させることができるのならば、体験を建築設計の基盤におくことで、建築の尺度を変様させ続けることができる。体験を建築の基盤におくと、建築は常に壊れ続ける。建築は絵画のキャンバスのように単なる容器にとどまらず、体験によって伸び縮みして、時間が内包されゆく。この変様する尺度に「体験の尺度」と名前を付けるならば、建築の概念は大きく更新される。建築の大きさは体験によって変化する。 体験による円の大きさの比較
fig. 回る速度によって変様する尺度

07_即興と共鳴

低予算で制作されたガタガタな鏡貼りの円柱は、会場の中を照らす光を揺さぶり、ランダムに反射させる。光が割れて、色が捻れて、影が揺らぎ、床や壁は様々な様相を呈する。クラブの中に円柱を挿入するだけで、空間の全体性は溶解し、曖昧な様相が時間によって浮かび上がる。演者も観客も回るという体験を前提として、刻々と移り変わる空間に合わせて無意識の内に踊る。回りながら、空間の中に身体が引きこまれ、偶然的な所作が誘発される。丸い光が床に照らし出されたら、手を置いてみたくなる。光の線が床に伸びたら、跳び越えてみたくなる。眩しい光が目に飛び込んだら、顔を背けたくなる。空間によって様々な所作が次々と生産されてゆく。とても即興的である。この即興性は「ものと人間の関係」だけではなく、「ものの射映と人間の関係」であるという点において特筆すべきである。「円柱」と「人間」は、回るという体験によって関係が結ばれている。これを「ものと人間の関係」としよう。これは、もの派の美学に近い。一方の「円柱に反射した光や影」と「人間」は、「ものの射映と人間の関係」である。もの自体ではなく、ものに生まれる二次的な現象と戯れる関係性である。その意味においてより即興的かつ本質的である。回るという体験を前提として、その中でまた別の即興が引き出されてゆく。回るという体験を踏み越えて、本質的な所作が即興的に吹き出してくる。さらに興味深いのは、見えない振動が空間を支配しているかのように、その即興性が伝播してゆくことである。一人が丸い光に手を置くために地を這うように進むと、空間内の別の人も地を這うような動きをする。動きが共鳴し、伝わりはじめる。即興が次々と伝播し、刻々と状態が変化しゆく場が形成されている。皆が全体であり、皆が部分でもある。そんな構造連関の中に強制的に放り込まれる。二次的な共鳴状態は、不思議な一体感と巨大なエネルギーを生み出す。そのエネルギーを共有する身体たちは、離れているのに繋がっている。身体の即興により、回っている全員が身体を共有して、トランス状態になる。観客と演者というラベルは剥がされ、皆で星空に浮かんでいるようなある種のトランス状態が実現されている。二次的な即興と身体の共鳴の可能性である。 床に落ちる光に手を置く演者
fig. 二次的な光と即興をする演者

08_共振エネルギーと空間の孔

回るという体験を媒介として、相互主観的な状態の中に浮かび上がった空間は、どこまでも線状に続いていくような気がした。それは、円状であると同時に線状の場所であり、驚くほど静かに熱がこもっていた。熱は伝播して、全員の身体に穴が空いて、その穴が繋がっている。梅原賢一郎が明らかにしたように、人間は穴を開ける動物である。近代において多様であった身体は均質化されてしまった。平板化された個々の身体に、回るという体験を強要することで、身体に綻びが生まれ、各々の身体に穴があく。穴のかたちや穴の色は人によって違うが、その穴はどこか別の時空と交通して、回っている僕たちの中で臍の緒のように繋がりはじめる。臍の緒が振動すると、共に回っている人も振動する。近代の均質化した身体よりも、回るという体験によって空いた穴の繋がりのほうが、本来的な生きることに近く、穴を通じた共振状態が生み出すエネルギーが、僕たちを未知の世界へに誘拐する。回るという体験を媒介とした共振状態においては、エネルギーが増幅している。そうして、僕はあることに気が付く。クラブ内に差し込まれた円柱は空間の穴ではないのかという疑問である。原広司は有孔体理論を提唱し、閉じられた空間に孔を穿つことを考えた。孔はn次元であり、時間を持つ。彼は物理的な孔を開ける技法を思索した。僕の仮説は少し違う。円柱は回るまで孔ではなく、回ることではじめて孔になるという仮説である。回るという体験によって身体に穴が開いたように、回るという体験によって空間に孔が開いたのではないか。回るという体験が空間に孔を開ける。大切なのは物理的な空間に孔を開ける技法ではなく、孔を開ける体験をいかに設計するかである。もし身体の穴が臍の緒のように繋がって、大きな共振エネルギーを生み出すならば、この円柱という孔は何と繋がってエネルギーを生み出しているのか。回るという体験が潜む空間には必ず孔が創出され、その孔たちが繋がってエネルギーを生んでいると思う。つまり、巡礼者がカーバ神殿を回る時に開く孔は、皇居ランナーが皇居を回る時に開く孔と繋がっていて、その孔は無意識の内に共振し、大きなエネルギーを生み出している。
山地大樹 / Daiki Yamaji
essay / 2020
UTATAで考えたこと
01  UTATAで考えたこと#1
はじまりの螺貝が響いて /  空間構成と音楽祭概要 /  歪曲された身体と自己 /  回る体験の位相
02  UTATAで考えたこと#2
体験によって現象する幾何学(1) /  体験によって現象する幾何学(2) /  即興と共鳴 /  共振エネルギーと空間の孔
03  UTATAで考えたこと#3
絵画の体験的統一 /  分割線の関係性 /  終わりに
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