信号機
文章 山地大樹
渋谷 . 2021.08.06
赤信号が襲いかかってくるような夜。
高枝切り鋏を持った男が渋谷を駆けまわっている。
世界中の街頭をすべて壊してしまいたい、と男は叫んだ。
オリンピックははじまったばかりだというのに。
鋏の先端は綺麗な円弧を描いた。
一瞬の出来事で、そして、時が止まった気がした。
大きな音がなった。雷のような、ひどく乾いた音だ。
信号機の表面のガラスがちぎれて、破片が床に飛び散った。
自転車に乗った女が知らん顔をして通り過ぎた。
赤いガラスは落ちてこなかった。
破裂した透明なガラス。
みじん切りされた玉ねぎ。
かたいアスファルトのまな板。
破片は通行人の唇に突き刺さって、赤い血が流れた。
男は放心していた。
熱い、熱い、と通行人が声をあげる。
横断歩道の規則的なリズムがやけに心地よい。
こうもりがみえた、と誰かが言った。
渋谷にこうもりがいるもんか、と誰かが応えた。
透明なガラスは血で赤く染まる、信号機のように。
パトカーと救急車の音が近づいてくる。
厭やらしいサイレン。嵐のような、ひどく湿った音だ。
LOUIS VITTONの店舗から無表情な男が出てきた。
正義も悪も持っていないのだろう。
のっぺらぼうの幽霊。
壊れた信号機がこっちを見ている。
誠実な視線。
眩しく、そして、美しい。
透明なマスクはあなたに似合わない。
どうかこのままでいて。
まっすぐに、ただまっすぐに、生きて。
男はパトカーに押しこまれた、無抵抗のままに。
通行人は救急車に押しこまれた、じたばたしながら。
どこか遠くへ運ばれるのだろう。
静かな夜がはじまるというのに。
赤信号を待つ男
信号機。それは赤と青という名詞と、止まると進むという動詞が結び付けられた形式である。先日、男が赤信号の前で止まっているのを見た。そこには車はいなかった。その信号という形式は男の身体の深く底に内在化されている。男は待ち続ける。車がいなくても待ちつづけるのである。信号機はもはや、男の脳味噌と同じ役割を持っている。男に待てというシグナルを送り、男は待つだけである。男は機械にハッキングされたのだ。
赤信号を変える男
信号機。それは赤と青という名詞と、止まると進むという動詞が結び付けられた形式である。先日、男が赤信号の前で止まっているのを見た。車のいない赤信号で止まっていた男である。男は「押してください」というボタンを押し、信号の色を青色へと変化させ、軽快に横断歩道を渡って行った。押ボタン式信号機。それは、機械にハッキングされた脳味噌の役割を、手元に取り戻す機械である。男は、ボタンを押すという少しの体験によって、現実世界を走り回る自動車を止めることができるのだ。男は道路の独裁者となる。
山地大樹 / Daiki Yamaji
memo / 2021
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