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マリオ・カルポ『アルファベットそしてアルゴリズム/表記法による建築-ルネサンスからデジタル革命へ

文章 山地大樹
アルファベットそしてアルゴリズムの表紙画像
マリオ・カルポ『アルファベットそしてアルゴリズム/表記法による建築-ルネサンスからデジタル革命へ』の読書メモです。街を散歩して美しい花を見つけるように、本を読んで心を惹かれる断片を集めています。体系的なものではありませんから、あしからず。

00_概要

2011年の3月に出版された『The Alphabet and Algorism』の翻訳である。訳者は美濃部幸郎。マリオ・カルポは「デジタル・ターン」という表現を使う。これはデジタル技術の革命という意味である。「デジタル・ターン」は1990年代の半ばにはじまった。情報技術が発展したことによって何が変化してゆくのか。この本はワルター・ベンヤミンの『複製技術時代の芸術』やジャン・ボードリヤールの『シミュラークルとシミュレーション』などの一連の議論の延長線上にあると同時に、近年でいうならば東浩紀の『動物化されるポストモダン』などのデータベース論も共鳴する思考回路であろう。美術の分野でいうと、椹木野衣の『シミュレーショニズム』やアンディ・ウォーホルが参考になる。松岡正剛の「編集工学」の編集的な視点も重要になる。また、ネルソン・グッドマンがかなり参考にされている。そのような考え方が、デジタル・テクノロジーにおいてどう変化するかが考えられている。重要なのは建築というのはどんな議論を踏まえたとしても最終的に物質的なものとなることである。それゆえに、建築はデータベースになるとか、建築は記号でしかないという議論は空虚に見える。だからこそ、建築的な視点で情報技術について論じているものは総じて面白い。『アルファベットそしてアルゴリズム』という本は、デジタル・テクノロジーとルネサンスを結びつけて考察されているのが特徴的である。そこにデジタルの可能性、そして建築の未来はあるのか。さて、読んでゆこう。

01_可変性、同一性、微分的差異

しかし、手仕事によるテクノロジーの時代﹣ すなわちあらゆるケースがそのそれぞれの利点字応じられ、個々のヴァリエーションが注文に応じて話合われ、交渉され、カスタムメイドされていた時代 ﹣に考えられていたよりも遥かに大きな程度にまで、差異を生成するこのまさに同じプロセスが、今では〔コンピュータのアルゴリズムとして〕スクリプト化されてプログラムになり、ある程度まではデザインされうるものとなっているのである。可変性は今や、自動化され一連となったデザインと製作に含まれる、一部分になることができるのである。
マリオ・カルポ『アルファベットそしてアルゴリズム』 | p24
このころからスタディは、模型を主体に進めるようになっていった。発泡スチロールをさらに細かく刻み、白い小さなかけらを10個、11個と増やしていく。3種類の住宅は、敷地模型の上にバラバラと散っていった。(中略)すると、段々と建築の存在自体が、ひとつのランドスケープのようなものに変わり始めた。それは、どこかの巨大遺跡みたいに風化しやすいものが消え、もとの造形の意味や形式が希薄に感じられるほど断片化し、少し風通しがよくなった状態。断片化されてもどこか統一感があって、一つひとつがどうなっているかなど気にはならず、一目であるひとつの世界に見えた瞬間だった。
西沢立衛『西沢立衛建築設計事務所スタディ集』 | p34
物語は1971年にリチャード・ニクソンが金本位制の終了を発表したところから始まる。金融の事例から3つのパラダイムが抽出される。要約しよう。信頼性は3つのパラダイムからなる。①類似性、②同一性、③アルゴリズムである。①類似性とはサインのように同一性が「視覚的な相似」していることによって成立する。②同一性は機械によって複製された貨幣のように「視覚的に同一」であることによって成立する。③アルゴリズムは、クレジットカードの並列された数字のように「非視覚的な特徴」によって成立する。デジタル技術の発達によって、非視覚的なアルゴリズムへとすべてが置き換えられてゆく。そうした非視覚的なアルゴリズムが台頭してきて、アルゴリズムが世界を支配しはじめている。世界は数字の羅列が先にあり、それを現実世界に落とし込むようなものになっている。東浩紀が『一般意志2.0』において一般意志は政府の意思ではない。個人の意志の総和でもない。そして単なる理念でもない。一般意志は数学的存在である。とルソーを解釈しなおしたことを思い出す。その数字の羅列を現実世界へと落とし込む時に、ある程度の差異を生成することができる。具体例としては、ひとりひとりに違った広告を出すようなものである。デジタルによって産み出される差異は「系列をなすヴァリエーション」であるという意味において、手仕事とは異なる。グレッグ・リンの「微分的差異性」という単語で説明されている。「微分的差異性」の総体を「オブジェクティル」という「類の概念」でまとめている。デジタル・テクノロジーが「類の概念」を生み出すと述べられているわけだが、私はそうした差異の作り方をどうも疑問を感じている。差異がかたちとして提示されることに限界があるのは、歴史を見ると明らかである。差異は、つくり手ではなく、つかい手の「体験」によって作られるべきだと思うからである。『森山邸』を見ると、ひとつひとつのボックスに、住まい手の日常が溢れ出して、ひとつひとつが豊かな差異を生み出していることがよく分かる。差異は形態として住まい手に押し付けられるものではなく、住まい手の「体験」によって見出されるものであるべきだ。今後はこうした豊かさが求められる。さて、それはそうとして、西沢立衛による『森山邸』という住宅を見ると、「系列をなすヴァリエーション」という言葉もうまく当てはまる。白いヴォリュームが分散配置された住宅は、模型というメディアを用いて作られている。マリオ・カルポの『アルファベットそしてアルゴリズム』では、図面とデジタル空間についてのみに焦点が当てられ、模型についての話が出てこない。この本に対して、模型の立ち位置を考えることがとても重要である。上記の引用は『森山邸』のつくられ方に関して髙橋一平が語った「ランドスケープな建物」という文章の一部であり、『西沢立衛建築設計事務所スタディ集』に所収されている。この引用を見ると、模型というメディアが「断片化」されつつも「統一感」を持つという、「微分的差異性」の状態が浮かび上がっているのがよく分かる。日本においては、模型についての豊潤な議論がかなりある。多木浩二や磯崎新なども模型に大きな関心を示している。模型というのは単なる完成形のミニチュアなのではなく、抽象化されたメディアである。これはコルビュジュエの『建築をめざして』(memo0006)に書いたように「深層」の空間へとつながる議論である。模型は発砲スチロールやスチレンボードによってつくられるが、それゆえに素材の切りにくさや加工のしやすさなどの規定から、次第に抽象化されてゆく。その模型による規制は、不自由であるどころか、逆説的に洗練された思想を可能にする。それと同時に、上から見るという「俯瞰の視点」と覗き込む時に生まれる「日常の視点」の二重性を持つ操作可能な対象である。その二重性こそが「ひとつのランドスケープ」的な様相を生み出した。吉本隆明の『ハイ・イメージ論』が参考になる。さて、こうしてみてゆくと、「系列をなすヴァリエーション」というのがデジタル・テクノロジーに依る必要はなく、模型というメディアにも代用できることが分かる。もちろん、マリオ・カルポは「系列をなすヴァリエーション」がデジタル・テクノロジーに自動生成されることによって、大量生産が可能になると主張しているのだが、そもそも現代において大量生産する必要があるのかという前提に立ち戻る必要があるだろう。以下は項ごとの簡単なメモである、興味のない方は次の章へ。 森山邸
fig. 森山邸 | 西沢立衛 | image via flickr.com | © midorisyu(modified)

建築と同一的コピー : そのタイムライン

印刷技術の本に含まれる「視覚的なイメージ」の背中を押すことによって、イメージが先行した建築の作り方へと変化した。「規格化されたイメージ」が「工業用の組み立てライン」に先行する。ボードリヤールの世界観を思い出す。

代著と表記法

アルベルティが行った事は、建築を書き割りの世界に還元することであった。書き割りの世界の上では、確かに物質性と客観性の矛盾は解決したかに見える。しかしそもそも書き割りの世界では物質を捨象した所に存在する、図像の世界にすぎない。そこでははじめから生々椎物質性は排除されているのだから、矛盾もまた存在しようがないのである。
隈研吾『新・建築入門』 | p157
その結果「計画図面」が顕著になる。そうしてアルベルティは「幾何学の透視図を発明した副産物」として「平行投影」を見出し、建設とデザインを切り離した。つまり、正確な縮尺や寸法を持つ図面をつくることがデザインであるということだ。しかし、隈研吾が『新・建築入門』で指摘するように、アルベルティの建物がその「計画図面」の形式性ゆえに「書き割りの世界に還元」されてしまったという事を忘れてはならない。アルベルティによる『サンタ・マリア・ノヴェッラ教会』の壁面は見事ではあるが、それはもう建築というには程遠く、平面上のあそびへと堕落している。そうした平面(プラン)という「深層」を設定しつつも、平面から立ち上がる立体「表層」まで思索したのがル・コルビュジエである。このあたりの話は『建築をめざして』(memo0006)に載せたので、興味があれば読んで欲しい。

原作者性

建設とデザインを分離させることで、原作者の問題が生まれる。アルベルティはデザインに「原作者によるオリジナルの意図」という刻印をつける。そこで、建物そのものではなく、デザインがオリジナルであるという逆転現象が起こる。これはレム・コールハースの『錯乱のニューヨーク』(memo0004)の偏執症的批判方法の議論に接続されるだろう。すなわち、建物とそのデザインは「表記法の上での同一性」が担保される限りにおいて、デザインの原作者が建物の原作者となる。その結果、デザインがコピーされた印刷物から生まれた建物も、原作者のものとなる。

初期近代における同一的な複製の追求

表記法によって建設される建物としてピーター・アイゼンマンの建築が追求される。そうして「表記法の上での同一性」を確保するために生まれたものは何か。「刷新された社会的な慣例(原作者性)」と「新しい文化的テクノロジー(建築の計画図面のために信頼できる表記法のフォーマット、あるいは規約)」である。そうした世界観の蔓延である。

幾何学、アルゴリズム、そして表記法の障害

「表記法の上での同一性」を保つためには、建築は縮尺と寸法の記述された。平面図、立面図、断面図というものに落とし込まれる。ヴィトルヴィルスのモデュラーシステムは、縮尺と寸法の入った図面のシステムへと変換された。逆説的に、図面に落とし込まない限りは建設できなくなる。すると、図面に落とし込めるような形へと作りたいものを歪めるしかない。それが「表記法の障害」である。マリオ・カルポの独創性はこの「表記法の障害」を乗り越えうる可能性としてデジタル・テクノロジーを発見しているところにある。

同一性の衰退

フランク・O・ゲーリーの建築があげられ、デジタル・テクノロジーが「3次元の縮図器」として働いたことが述べられる。「表記法の障害」が乗り越えられ、図面に落とし込まれることなく、スクリーンの中の建築と建てられるはずの建築が一致した(同一化した)のである。ライプニッツの「微分学」、ドゥルーズの「襞」、ドゥルーズとカッシュの「オブジェクティル」などの概念となぜか共鳴する。その後、原作者性の話に舞い戻る。そうした無限のヴァリエーションが生まれることによって原作者性はどこに行くのか。原作者の力が弱まってゆくのは明らかである。

アルベルティ・パラダイムの反転

「デジタル・ターン」によって、デザインすることと製作することがスムーズにつながりつつある。そうして、無限に生まれるヴァリエーションの総体的なものをつくる「オブジェクティルのデザイナー」の原作者性は、アルベルティ以前に戻るという。 サンタ・マリア・ノヴェッラ教会
fig. サンタ・マリア・ノヴェッラ教会 | アルベルティ | image via unsplash.com | photo by Eleonora Altomare(modified)

02_隆盛

先端のCAD-CAMシステムは既に、デザインと生産のあらゆるステージで、参加者たちや技術的にネットワークされた諸々のものとの間の協働やインタラクションをサポートし、実際にそれを促進してもいるので、完全にデジタル環境にサポートされた建築の表記法が生む最終生産物は、手工業職人の手仕事による製作が生む、原初的で先祖から受け継がれてきた、自著性がなしてきた諸側面を、また再演させる可能性がある。皆が、議論し、デザインし、そして作ることが、同時にできるのだ﹣ まさにかつては、前﹣近代の手工業職人たちや、前﹣アルベルティ時代のマスター・ビルダーたちがしていたようにである。
マリオ・カルポ『アルファベットそしてアルゴリズム』 | p103
未来の統治は、大衆の無意識を排除するのではなく、かといってその無意識に盲目的に従うのではなく、情報技術を用いて無意識を可視化したうえで、その制御を志すものとなるべきである。
東浩紀 『一般意志2.0』 | p174
マリオカルポによると、デジタル・テクノロジーによって、「皆が、議論し、デザインし、そして作ることが、同時にできる」ということがアルベルティ以前の「前﹣近代の手工業職人」や「前﹣アルベルティ時代のマスター・ビルダーたち」のようなものに変化する可能性を持つという。指摘としては面白いのだが、私はそうはまったく思わない。というのは、そうして完成されたものの質が担保される保証がないからである。住民参加や民主主義的な建築というハリボテの正義を掲げて、建築の質を下げることで人々の豊かさを剥奪する建築家がメディアで多く取り上げられているが、騙されてはならない。ひとりひとりがその意味自分の頭で考え、自分の意志で決定をするべきである。住民参加型のデザインの議論は、クリストファー・アレグザンダーから存在していたものであり、そのあたりの文脈なしでは語れない。だからマリオ・カルポがアレグザンダーに触れていないのはどうも疑問である。こうした可能性を語るなら、危険性も共に考える必要がある。美術館に素人の絵が飾られるように、街の中に素人の建築が乱立するのは、あまりに危険すぎると思う。補助線を引くのなら、東浩紀による『一般意志2.0』が参考になるだろう。この本において、ジャン=ジャック・ルソーの一般意志を読みかえ、情報技術時代の新しい民主主義を考えている。ここでは、ひとりひとりとコミュニケーションをとるのではなく、データーベースを無意識と捉え、その可視化を前提として政治を行う可能性が解かれている。建築に置き換えるのならば、建築家は大衆の意見を排除するのでもなく、無意識に盲目的に従うのでもなく、可視化された欲望を情報技術によって可視化し、意志決定を行うということである。これは、建築家と大衆の役割の断絶を受け入れたうえで、大衆を無下にすることなく、建築そのものの質も担保する方法として可能性がある。最近の流れでいうと「vuild」という建築家集団は、「生きる」と「つくる」がつながる社会へというコンセプトを掲げて、すべての人を「設計者」にすることを目論んでいる。つまり、建築家と大衆の断絶をテクノロジーによって無くそうとしているのだが、私はこの考え方が、建築そのものの質を大幅に下げてしまうように思えてならない。というのは建築というのは、古代から続く複雑なシステムであり、そうした積み重ねの中で美学や秩序を洗練させてきたからである。その複雑なシステムを「つくり手」へと明け渡すことで、文化や歴史が失われてしまう危険性がある。美術館に素人の絵が飾られるように、街の中に素人の建築が乱立するのはあまりに危険すぎるし、私はそんな世界に希望を見出せない。こうしたことに敏感な建築家は少ない。日本においてこうした問題に本気で立ち向かっているのは乾久美子くらいであろう。乾久美子の『小さな風景からの学び』というプロジェクトは幾つかの欠点はあるものの、クリストファー・アレグザンダーの『パタン・ランゲージ』の文脈を読みつつ、個人の感覚に基づいた写真の集積から無意識の豊かさをデータベースとして可視化しようとしている。フッサールの現象学的な視点を踏まえつつ、新しい建築家像を模索しているのが分かる。建築に向き合う姿勢といい、そうした新しいものへの探究といい、とても素晴らしいと思う。何より「学び」という言葉は天才的である。大衆の意見を排除するのでもなく、無意識に盲目的に従うのでもなく、大衆から学ぶ。建築家と使い手の根源的な断絶をしっかりと受け入れた上で、大衆から学び、建築家としてしっかりとした質を提供する。このやり方から私たちは学ぶ必要がある。これからの時代に必要なのはこのような方法論だと思う。ちなみに私は、建築家と使い手の根源的な断絶をしっかりと受け入れた上で、使い手の「体験」を大きく膨らますような建築論を考えている。以下は項ごとの簡単なメモである、興味のない方は次の章へ。

アルベルティと同一的なコピー

アルファベットによるテキストや数学は、ハンドメイドのドローイングよりも正確に意味を伝達することができる。アルベルティはその利点から「アルファベット、ダイアグラム、そしてアルゴリズム」という文化的テクノロジーを使用した。これは、デジタル化といってもよい。

デジタルへ

アルベルティの『都市ローマ記』の極座標系を用いた地図のデジタル化、『彫刻論』における人間の身体のデジタル化が例としてあげられる。正確な表記法によってデジタル化されたならば、複製可能である。これが現在の情報テクノロジーのデジタル・プロセスを予見していたという。重要な違いは「スピード」だけである。

ウィンドウズ

『絵画論』について言及され、中心投影透視図法でない方法が示唆されていたという。それは、スクリーン上のイメージすべてを「数字のワン・セットとして記録する可能性」を暗示している。つまり、デジタルファイルと同じ構造なのである。『建築論』において「調和」の三要素として「数、比例、配列」があるが、この「配列」というのが同一性への意志の証拠となる。

I.D.ピクチャーとファクシミリの力

エルサレムにある聖墳墓教会の小神殿のコピーを、フィレンツェのサン・パンクラツィオ教会にあるファミリー・チャペルに再建するという計画が述べられる。その後「最良の絵画」としての肖像画は「鏡あるいは静寂の水域に反射したもの」であるというアルベルティの価値観が提示される。ここにおいて、コピーとオリジナルの同一性を保つ方法を探究が裏付けられる。

アルベルティの模倣ゲームとテクノロジーの欠陥

ここで述べられる欠陥とはコピーとオリジナルの再現性の問題であり、それは後に複製技術によって叶えられる。アルベルティは「印刷技術」を自身の目的に適合するものとして認識するに至らなかった。「機械テクノロジー」は「同一的な複製物」を大量生産するのだ。「表記法による建築」が大部分の人々に再弄されているのである。

アルベルティ・パラダイムの発明

ブレネレスキは建築の原作者という近代的なアイデンティティを発明したのかもしれないが、彼のものは、インデックスを刻印することによって生まれる原作者性であった。﹣ すなわち、自著的で、手工業職人的な原作者性であったのである。
マリオ・カルポ『アルファベットそしてアルゴリズム』 | p99
フィレンツェのドームは、委員会製デザイン(design by committee)に近いものである。つまり、皆が議論して建築をつくりあげる。これはデザインをしていないと批判的な意味で使われる言葉である。『錯乱のニューヨーク』でマンハッタンの建物はすべてが「委員会製デザイン」であり、その委員会のメンバーはマンハッタンの住人すべてあると述べられていたことを思い出す。ブレネレスキはそうしたデザイン・プロセスの中で「知的原作者」であることを守ために困難な闘いに挑む。つまり「集団による社会的コンセンサス」によって定義される曖昧なアイデンティティを、「自著」によって定義されるものへと変更を目論む。そのために「あらゆることの親方」であろうとするために、指示を小出しにした。それは「手工業職人的な原作者性」である。こうしたやり方には限界がくる。そこでアルベルティが「原作者性」という概念に磨きをかけ、「建築の表記法による転回」をしたのだ。ブレネレスキの「原作者性」への闘争がアルベルティ・パラダイムの基盤となったのである。アルベルティ・パラダイムにおいて、デザインと建設が分離された。私の言葉にするならば、「体験」が剥奪されたとみる。作り手側から見ると、新たに「職人的な体験」は「図面を書くという体験」へ流転した。しかしそれは、受け手側の話ではなく作り手側の話でしかないということに注視すべきである。このあたりの話はまた別の機会に。 フィレンツェのドームの正面写真
fig. フィレンツェのドーム | ブレネレスキ | image via unsplash.com | photo by Daria Krav(modified)

03_衰退

近代的な設計図のフォーマットがデザインから建物への同一的な変換を保証した。(中略)銀板写真と機械式の印刷が、インデックスを刻印するような質を、オリジナルに対する忠実さを、そしてイメージの同一的な複製を、つまりはヴィジュアルなパターンや複製をも保証した。そして最後に、産業化したテクノロジーが、大量生産によるどんな品物をも、それらが同一的にコピーされた数量に反比例した単価で同一的に複製することを可能にした。ここに至ったとき、テクノロジーが変化し、新たなデジタル・ツールが古い機械的なものに取って代わり始めた。この技術の移り変わりに伴って、同一的なコピーの衰亡が始まったのである。
マリオ・カルポ『アルファベットそしてアルゴリズム』 | p8
だから建築を考える事は、図面や模型などに依る媒介と切り離すことができない。僕たちは一度つくってしまった媒体を壊すことができる。他者とコミュニュケートできる。現実世界に応答することができる。媒体を介して初めて、建築のトライ・アンド ・エラーが可能になるのだ。それはシェフが毎晩リアルな大きさ、リアルな材料、リアルな味を、自分の目や鼻や舌で実物を確認しながらつくるのとは決定的に違う。しかし図面や模型などの媒体は単なる思考の制約なのではない。実物ではなく媒体とともに施工することによる「具体的な抽象化」こそ、建築的思考の大きな特徴なのではないか。
長谷川豪『考えること、建築すること、生きること』 | p20
デジタル・テクノロジーによって「同一的なコピーの衰亡」するという。つまり、個別で独自性を持ったヴァリエーションがデジタル・テクノロジーに安価に生み出されるようになる。マリオ・カルポのこの世界観は、デジタル・テクノロジーによってデジタル空間が「3次元の縮図器」として機能するという前提がある。デジタル空間において建築が完成するかのように語っている。実際3Dプリンターで制作される家などはその典型であり、デジタル・テクノロジーが「3次元の縮図器」としての機能が近い将来に実現されることは明白である。とはいえ「3次元の縮図器」というものが果たしてどれだけの現実空間の質を保証してくれるのだろうか。長谷川豪は『考えること、建築すること、生きること』において、シェフと建築家の類似性を指摘し、その決定的な違いを「具体的な抽象化」にあると主張している。つまり、シェフが実際の味や食材を確認しながら実物で試行錯誤するのに対して、建築は模型や図面という媒体に置換しながら考える。それゆえに「考えること」が深化してゆくという。マリオ・カルポの主張は、デジタル・テクノロジーによって、デジタル空間が「3次元の縮図器」として機能するために、建築家はシェフのようになるということだろう。実物でスタディするシェフような建築家像によって失われてゆくのは、深く「考えること」ではないのか。模型や図面やスケッチという媒体は、考えたいことによってかなり複雑な形態をとる。平面を考えたい時には、平面図を描くし、立面を考えたい時には立面図を描く。そうした図面は時々によって縮尺を変更したり、細部を省略して記号化したりする。模型にしても、実際の寸法を確認するために原寸模型をつくったり、敷地との関係性を考えるに当たって敷地を切り取ったものをつくったり、生活を想像して点景を入れたりする。スケッチは視点によって何枚も描いたり、色鉛筆を使ったり、水彩絵の具を使ったり、油絵を使ったりもする。そうした様々な状態を推移しながら思索を重ねることが、建築を考えることである。デジタル・テクノロジーに頼らなくとも、模型や図面というのはそもそも、伝えたいことや、見たい景色などをひとつひとつ考えながら共有するメディアなのである。デジタル・テクノロジーによってすべてが再現されると謳ってみることにことに何の意味があるのだろうか。多木浩二の指摘を思い出す。
いずれにせよ、「模型」は、現実を観念化し、観念を現実化する、中間的な存在なのである。そこには、日く言いがたい曖昧さがつきまとっている。現実を可能な限り再現しようとすると同時に現実を否定する。したがって、この再現の度合いが高まるにつれて、人工的な世界(非現実性)がいっそう強くあらわれる。きわめて精巧な模型ほど、人工的なきらめきをおびているし、それが「模型」の逆説的な魅力であるという経験は誰でも知っている。
多木浩二 『視線とテクスト』 | p207
多木浩二は「模型」を「現実を観念化し、観念を現実化する」媒体としている。特に面白いのは、再現の度合いが高まれば高まるほど、逆説的に模型が人工性をおびるという指摘である。なるほど、デジタル・テクノロジーによって現実と観念が近づけば近づくほど、人工的なキッチュさが生まれてくるのかもしれない。どんな媒体でも「現実と観念」が完全に一致することはないだろう。もし仮に完全に一致する世界があるならば、私たちに現実世界はいらなくなるだろう。少なくとも建築はいらなくなる。ハンス・ホラインが「ノン・フィジカル・エンヴァイラメンタル・コントロール・キット」において示したように、一粒の錠剤が建築となる。しかし、私たちは、そんな世界観に気持ち悪さを感じる。「模型」が「現実を観念化し、観念を現実化する」媒体として機能するにしても、その媒体の不完全さこそが私たちの生きる豊かさを生み出しているはずだ。マリオ・カルポの主張は、媒体の不完全さを隠蔽して、あたかも媒体が完全であるかのように演出している点において、不誠実さを感じる。私は、「現実と観念」が一致しないということに関して自覚的になり、それゆえに生まれる「媒体の不完全さ」を逆説的にデザインの余白とするべきだと思う。建築は視覚的な問題だけでは語れない。以下は項ごとの簡単なメモである、興味のない方は次の章へ。

フォーム

アイゼンマンの元来のスタンスは明快であった。すなわち、折り畳みはプロセスであって結果ではない。折り畳みは必ずしも可視的な襞を産出することはない(後には産出していくことになっていくのであるが)。すなわち、折り畳みとは建設される形態を創造していくことに関連する。そうした形態は必然的に動きのないものではあるが、それでもなお動きの知覚を引き起こすことが、ある「形態の「生成変化becoming」」から生じる「連続的なヴァリエーション」や「永続する展開」を提示することによって可能なのである。
マリオ・カルポ『アルファベットそしてアルゴリズム』(赤線は私による) | p113
ハインリヒ・ヴェルフリンのと、ヴォルフガングケーラーの「tekete」と「maluma」の実験が並べられる。「tekete」が角のある形態であり「maluma」は丸みのある形態である。そうして1990年の後半から「maluma派」とでもいうべき形態がデジタル・テクノロジーと接続して熱狂を持ちはじめる歴史が語られる。ドゥルーズとアイゼンマンの関係が緻密に描かれる。とりわけアイゼンマンの記述がとても簡潔にまとまっているので、上記に引用させてもらった。重要なのは建築はつくると時が凍結されてしまうということである。それゆえ、建築が完成と同時に凍結されるという前提に立つアイゼンマンが、逆説的に凍結を避けるためにプロセスを提示する理由はとても分かる。磯崎新の『プロセス・プランニング』もその文脈である。私は建築が「必然的に動きのないもの」であるとするそもそも前提を破壊しなければならないと考えて、そうでない可変性を生み出す項として「体験」の重要性を主張している。ところで、1990年代の初期にはこうした「襞」のような建築の流行があったが、デジタル・テクノロジーが大胆に主張されることはなかった。マリオ・カルポは「後世から見ればデジタル・テクノノロジーは当時、不在中の主役」であったと表現する。しかし、1990年代の後半にデジタル・テクノロジーと結びつき、花開く。キーワードはドゥルーズの「オブジェクティル」という言葉であり「無限個のオブジェクトを含むひとつの関数」を表す。つまり、微分学が描き出した「オブジェクトのヴァリエーション(と、ヴァリエーションのヴァリエーション)」を「オブジェクティル」という言葉にまとめている。

スタンダード

比類なきものとしてオンデマンド製造されるミネラル・ウォーターを、規格化なしnomstandardに大量生産する、といったプロジェクトは、博士課程のセミナーや学者のカンファレンスでは多かれ少なかれ丁重な懐疑をもって迎えられるだろう。
マリオ・カルポ『アルファベットそしてアルゴリズム』 | p124
ワインという天然物、コカコーラという工業製品、その後20世紀のウイスキーの歴史が例として挙げられる。主張は一貫していて「ヴァリエーション」を「デジタル制御のマス・カスタマイゼーション」によって生み出す時代になっているということである。「オンデマンド製造されるミネラル・ウォーター」という言葉があまりに衝撃であったので上記をメモしておく。つまり、オーダーメイドと大量生産が両立するという。実際そこまで進んでいなくてもファミリーレストランのドリンクバーには、その時々に応じて無限のヴァリエーションの飲み物をつくり出せる装置がある。カルピスやコーラが様々なフレーバーで選択できる。つまり「メロン風いちご風味カルピスコーラ」などを気分に応じてつくり出すことができる。私が重要だと考えるのは、そうしたドリンクを主体的につくり出す「体験」であり、それと同時に、ドリンクを飲み干すことでお代わりができることにある。二杯目を楽しんではじめて多様性足りえる。「ヴァリエーション」は比較されない限り「ヴァリエーション」足りえないということを忘れてはならない。つまり、簡単に壊すことのできない建築の形態に、安易に落とし込むのはあまりに危険すぎるということである。ゾゾスーツ(ZOZOSUIT)を思い出す人が多かろう。全身を自動採寸することで、ジャストフィットの洋服が提供されるというものであった。デジタル・テクノロジーを用いて「同一的なコピーの衰亡」してゆくはずだったが、人気は下火である。もちろん様々な理由はあるのだろう。私の個人的な見解では、ヴァリエーションというのは並列されることではじめて理解されるものであるからだと思う。つまり、「ヴァリエーション」は比較されない限り「ヴァリエーション」足りえないのだ。例えば、通常の洋服屋には様々なサイズの洋服が用意されている。そして、その中から自身の身体に一番馴染むサイズを選びとる。馴染まないサイズを切り捨て、一番馴染む物を選択する。その選択可能性含めて、ジャストフィットという概念がある。古着屋で「これしかない」洋服に出会う喜びのためには、「これではない」洋服が世界中に溢れている必要がある。ジャストフィットすることがあらかじめ了解されているものというのは、選択可能性が排除されている時点でジャストフィット足りえないのである。その意味において、こうしたジャストフィットという個別解を提供されたとしても、そこには比較がないためにそれが本当にジャストフィットかどうか理解しようがないのである。建築も同じであり、そのためには無駄な空間(物理的な意味とは限らない)が欠かせないのである。その中で、主体がジャストフィットする空間を発見する必要があるだろう。

エージェンシー

明らかに、建築の最終時点はある時点で、ソリッドで、変動もなく、永続するかたちで、建設されなければならない﹣ これは自由に変化し続けることができる、メディアにおけるオブジェクトには適応されない制限事項である。
マリオ・カルポ『アルファベットそしてアルゴリズム』 | p144
デジタル・テクノロジーはインタラクティブ性やヴィジュアル性などの利点を持つ。それゆえに、建築家がデザイン・プロセスにおいて他の参加者の役割を高める可能性があると述べられている。マリオ・カルポは、建築はデジタルモデルとして表記された物を、スムーズに現実に現実に落とし込む動作であるという世界観を提示し、それゆえ、ウィキペディアのようにオープンソース化されてゆくという。上記の引用は、その中の一部にマリオ・カルポがさらっと書いているものである。私は、そもそもこの前提が違うと考えている。この視点は、あまりにつくり手側に寄りすぎていて、使い手のことを何も考えていないように感じる。現実として、建築は建設された時点で凍結される。ただ、そこで止まるわけではない。それは未来を含みこむはずだ。凍結された建築は使い手によって使われる。マリオ・カルポの世界観はつくり手側にとっては面白いが、現実につくられる建築についてあまりに無責任すぎる。だから、使い手をつくり手側に参入させることで、その無責任さを回避しようとしているように見える。建築は長くその場所に残ってしまう。だから、そうした無責任な態度はあまりに暴力的に見える。アイゼンマンや磯崎新が思索した文脈を、完全に無効にしようとしているように見える。私は、つくり手側とつかい手側の断絶を受け入れた上で、その凍結を超えるような建築を考えてゆきたい。そのための手法として「体験」を提示しているわけである。

04_エピローグ:スプリットエージェンシー ﹣ 建築家の力の分割と移譲

あらゆるパラメトリック・デザインは必然的に原作者性に2つのレヴェルを生じさせる。ひとつ目のレヴェルでは、第1位の原作者は、類的=総称的genericオブジェクト(あるいは、オブジェクティル:プログラムまたは系列、あるいは生成力をもったgenerative表記法)のデザイナーである。もうひとつのレヴェルでは、第2位の原作者が個別の最終生産物をデザインするために、類的オブジェクトから種的specificオブジェクトを特定する(アリストテレス哲学における語句の意味において)。
マリオ・カルポ『アルファベットそしてアルゴリズム』 | p156
自動車は、単純な機能(走る)と複雑な目的(快適さ、耐久性、外観)をもつものであり、大企業に標準化を絶対に必要とさせた。自動車は本質的なものは全く同じなのである。疲れを知らない競争によって、自動車を造る無数の会社は、それぞれ競争を制しなければならないことに気づき、そこで、実現された実用的なものの標準の上に、実用的ななまの事実を超えた完全さと調和の研究が入り、完全さと調和だけでなく美の表現が入り込んだのである。そこから様式が生まれる。すなわち、誰も一致して感ずる完全さの状態の、誰も一致して認める獲得である。標準の策定は、合理的な要素を等しく合理的な方針に従って組織することから生ずる。包む形は、予め構想されるのではなく、結果として現れるのである。
ル・コルビュジェ『建築へ』 | p110
マリオ・カルポは原作者性に2つのレヴェルが生じると述べる。1つ目は「類的=総称的genericオブジェクト」であり、2つ目は「種的=総称的specificオブジェクト」である。私はこの帰結は些か早急すぎるように思う。「建築家は、類を生み出す原作者になるように訓練されたことなどいまだかつてなかった」というように書いている。しかしながら、建築を2つの層に分けてどちらもの原作者になろうとした人物として、ル・コルビュジエがいる。この話は、『建築をめざして』(memo0006)というメモに載せた。例えば上記の引用において、コルビュジエは自動車を例に挙げ、「標準」と「包む形」とを分離して説明した。「実用的なものの標準」という「類的なもの」の上に、「美の表現」という「種的なもの」があるという。これと同じように、建築においても「標準」と「包む形」を分離させ、それら両方が大切であるという。「量産住宅」というのは「類的なもの」と「種的なもの」の分離があってこそ可能になる。つまりル・コルビュジエこそが、類を生み出す原作者であると同時に、種を生み出す原作者となろうとした人物なのである。繰り返すが、私は「類的」なももと「種的」なもの媒体にとして使い手の「体験」を据え置く方法を思索している。さて、そろそろまとめに入ろう。マリオ・カルポのこの本の主張は常に明快であり、とても筋道だっている。そして、デジタル・テクノロジーをルネサンスと接続して語ったことには大きな意味があるだろう。しかしながら、その結論についてはあまり納得できるものではない。私がこうした可能性を空虚だと考えるのは、建築が客体として提示されるという前提に基づいた議論がなされているからである。建築が完成と同時に凍結されるという前提である。つまり「種的」なものが客体として提示されてしまう。このような議論をいつまでも続けても、豊かな建築が生み出される予感がまるでない。私が「表現された後に現れる建築」という言葉を使うのはそうした理由がある。もはや「客体信仰」とでも言えるようなものが、世界を支配しているように思える。現在は凍結されるものではなく、未来を含み込む。いくら差異が提示されようが、いくらプロセスの素晴らしさが提示されようが、それが客体として凍結される限りはその先の議論へ進むことができないのではないか。そうした「凍結」を乗り越えるために、磯崎新もピーター・アイゼンマンも闘ったのではないのか。狡猾な態度は世界を傷つける。世界はもうとっくに傷だらけであるというのに。恐ろしいのは、建築が客体としての完成形であるという価値観があまりに浸透していることにある。私の主張は、受け手の「体験」をいかに大きくするというものだ。建築を使う人が「建築の作り手側」に参入することが重要なのではなく、建築の使う人が完成された建築を自分ごととして捉えることのできる「体験」を設計した方がよい。手工業的な体験は、つくり手側に戻ってくるのではなく、使い手に取り戻されるべきである。「ヴァリエーション」は使い手の「体験」によって無限に生成されればよいのである。私が「AIの家」という新建築住宅設計競技2018の課題において提出した漫画(増本慶と共作)は、デジタル・テクノロジーが安易に建築の形態に落とし込まれることの危険性を考え、そうでない可能性を模索したものとしての回答であった。さて、デジタル・テクノロジーは徐々に進化している。ブロック・チェーンの技術用いれば、原作者性の議論はまるで異なる次元へと移行するだろう。日本語版のまえがきにマリオ・カルポは「いい日には、私はその現象に魅了される。そして悪い日には、懸念を感じる。」と述べている。私もそう思う。もうデジタル・テクノロジーを無視するわけにはいかなくなっている。知らないでは済まされない。ひとりひとりが、可能性と危険性を考えるべきだろう。兎にも角にも、デジタル・テクノロジーという最先端と、ルネセンスという歴史を結びつける試みは刺激的である。建築をやってる方も、建築をやっていない方も、この本には目を通しとくべきだろう。
山地大樹 / Daiki Yamaji
memo / 2021
マリオ・カルポ『アルファベットそしてアルゴリズム/表記法による建築-ルネサンスからデジタル革命へ』
00  概要
01  可変性、同一性、微分的差異
02  興隆
03  衰退
04  エピローグ
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