AFTER POST OFFICE.

ル・コルビュジエ『建築をめざして』

文章 山地大樹
建築をめざしての表紙画像
建築への表紙画像
ル・コルビュジエ『建築をめざして』の読書メモです。街を散歩して美しい花を見つけるように、本を読んで心を惹かれる断片を集めています。体系的なものではありませんから、あしからず。

00_概要 / 『建築へ』と『建築をめざして』

『VERS UNE ARCHITECTURE』は1920-1921年にかけて「エスプリ・ヌーヴォー誌」にル・コルビュジエによって連載された記事をひとまとめにしたものであり、『建築をめざして』という吉阪隆正訳のもの(鹿島出版会)と『建築へ』という樋口清訳のもの(中央公論美術出版)のものが日本語で読める。『建築へ』という青色の表紙の方は、ル・コルビュジエ財団の協力を得て、オリジナルと同じレイアウトとのことでとても美しい。ル・コルビュジエはレイアウトにもこだわる人なので、こちらの方が迫力や世界観が迫ってくる。ただ『建築をめざして』というタイトルの方が普及していることも否めないし、訳者の吉阪隆正はル・コルビュジエのアトリエで働いていたことや値段が安価であることもあり、こちらも捨てがたい。美しく丁寧な翻訳と当時のレイアウトを見るなら『建築へ』を、力強く熱量のある翻訳を見るなら『建築をめざして』を読むと良い。今回は『建築をめざして』(鹿島出版会)を手元に置いて参照しながら、『建築へ』(中央公論美術出版)を読んでゆくことにしたい。つまり、このホームページで表記されるページ数は基本的に『建築へ』(樋口清訳)のものである。それでは読んでゆこう。

01_技術者の美学、建築

診断はこうである、始めから始めるためには、知識から出発する技術者が道を示し、真実を得ている、ということである。それは、造形的感動に関わる建築は、その領域において同様に始めから始めなければならず、そこで、感覚を打って視覚の欲望を満たすことのできる要素を使い、それらの視覚像が、繊細か荒いか、動か静か、関心を引くか引かないか、われわれに明らかに働きかけるように、それらの要素を配置しなければならないということである。
ル・コルビュジェ『建築へ』 | p8
従って、ボードレールのやった事は、詩から詩でないものを出来るだけ排除しようとする事、つまり、詩には本来、純粋な魅力というものがある筈で、この定義し難い魅力を成立させるた為の言葉の諸条件を見極めるという事だ。詩は、何かを、或る対象をある主題を詩的に表現するという様なものではない、詩は単に詩であれば足りるのである、そういう考えである。
小林秀雄 『近代絵画』 | p11
この章においては、技術者と建築家が対比される。技術者のつくるものは、知識や計算にもとづき「宇宙の法則」にまで到達しているが、建築家のつくるものは「腐った家と腐った婦人室」だけであり虚偽に覆い尽くされているという。ル・コルビュジェの戦略は、単に技術者の技術を建築に応用しようとするのではない。技術者が技術者の美学にもとづいて「始めから始める」ように、建築家は建築家の美学にもとづいて「始めから始める」必要があるということ。そのために、様式や構造というものではなく、「建築を始めるもの」を思考して建築をつくり直す必要があるのだ。そうして「感動させるためのもの」としての建築をめざして、原理が思索された本なのである。重要なことは、建築の領域を切り分け、それ自体で存在意義を見出そうようとしたことで或る。小林秀雄は『近代絵画』において、ボードレールが「詩は単に詩であれば足りる」という事を見抜いていたと述べる。そうして「絵画は絵画であれば足りる」という明瞭な意識を持って、絵画批評をしたのはボードレールが最初であるという。そう考えると、この章の最後にでてくる絵画の話はすんなりと理解できるだろう。ル・コルビュジェは、ボードレールが詩に対してしたことを建築に対して行ったのだ。つまり、建築の領域を分離させて深く思索したのである。「建築は建築であれば足りる」ということだ。建築だけに存在する魅力を語った。こうした態度が現代の建築家には明らかに希薄になってきている。大切なことは建築家は建築を考えることであり、思索から得られた建築の普遍的な価値を見失わないようにすることである。それは、テクノロジーと対立するようなことではない。建築の普遍的な価値に対して技術や情報テクノロジーや経済などを、建築の普遍的な価値に巻き込んでゆくことが求められている。それこそが『建築をめざして』の意味ではないだろうか。

02_原点に復帰の三つの呼びかけ 建築家諸君に

立体と面は、建築を表明する要素である。立体と面は、プランによって決定される。産み出す母体はプランである。想像力を欠く人たちには気の毒であるが。
ル・コルビュジェ『建築へ』 | p18
すなわち、アルベルティの計画図面は、インデックスを刻印したイメージなのではなくて、インデックスを刻印するある理想化されたプロセスの中での、母型matrixとして考案されているのである。
マリオ・カルポ『アルファベットそしてアルゴリズム』 | p90
「原点に復帰の三つの呼びかけ」という章は立体、面、プランの3つの項目から構成される。「原初的な形」が美しいという定義をもとに、視覚を重視した記述が目立つのが面白い。こうした視覚重視のリズム感はレイアウトにも現れて、様々な工場製品の図版が大量に差し込まれ、図版とテクストが相乗効果を生み出している。暴力的なまでの量の図版が埋め込まれているレム・コールハースの『S,M,L,XL』を思い出す。特に興味深いのは、生みだす母体を「プラン」に求めたことであり、ここにコルビュジェの独創性がある。「プラン」は吉阪隆正の翻訳では「平面」となっている。コルビュジェにとってのプランは「厳しい抽象化」であり「人間精神のきわめて高い活動」であり、とても「原初的」なものである。プランこそ本質であり、建築はそこから立ち現れるべきであるというわけだ。重要なのは、いくつかの歴史的な建物を「様式」という形ではなく、「プラン」という平面へと還元して見せた手際である。そうして歴史的な建物を根拠として「プラン」の重要性を捏造してみせる。レム・コールハースが『錯乱のニューヨーク』(memo0004)においてマンハッタンのゴーストライターを努めたように、ル・コルビュジェは歴史的な建物のゴーストライターとなる。レム・コールハースが「マンハッタングリッド」を発見するように、ル・コルビュジェは「プラン」を発見する。もちろん、コルビュジェの方は時代ははやいが。プランというのは建築図面として落とし込めることが重要である。図面は、メディアが台頭してきた中での表現手段としては大きな意味を持つ。ここで思い出すのはマリオ・カルポの「アルベルティ・パラダイム」という言葉である。アルベルティは、デザインと建設を分離させる。言い換えれば「計画図面」と「実際に建設される建物」を分離させて「計画図面」の方にアルベルティという原作者性を付与する。そうして「計画図面」と「実際に建設される建物」が一致する場合においてのみ、「実際に建設される建物」にも原作者性が付与されると考えた。これをマリオ・カルポは「アルベルティ・パラダイム」と呼ぶ。このあたりの話は、マリオ・カルポの『アルファベットそしてアルゴリズム』(memo0007)というメモに載せた。原作者性の議論はいったん棚の上にあげるとして、とりわけ重要なことは「アルベルティ・パラダイム」において「計画図面」と「実際に建設される建物」が分離されたことにある。批判を恐れずに暴力的にまとめるならば、「深層」と「表層」が分離され、「深層」が図面という表記法へと置き換えられたのである。この議論をコルビュジェに置き換えるならば、「プラン」というのは「計画図面」であり、まずそれを設計しなければならない。その後「プラン」という「深層」をもとに、「立体と面」という「表層」がつくりあげられるのだ。「深層」と「表層」という言葉が正しいかは分からないが、理解しやすくするために一旦この言葉にしてみた。「深層」とは「母体」であり「母型matrix」である。この2つの層に分離された結果、例示される歴史的建造物は「表層」と化し、プランという「深層」はコルビュジェの手元に引き寄せられる。これはピュリズムにも通底する考え方であり。「深層」がキャンバスの中に描かれることによって、事物が「表層」として仕立て上げられる。現実に対して「プラン」という「深層」が捏造されることで、現実は「深層」が立ち現れた「表層」と化す。それは、世界のあらゆる様相を手元に引き寄せ、一つの世界像を提示する方法なのである。こうした分離は、「深層」を本質的であるとみなして、確固たる「深層」を追い求めるようなものでは決してない。コルビュジェの思想は、正しい「深層」をもとにして、緻密に「表層」を積み上げてゆく必要があるという意味である。繰り返すが「深層」と「表層」を分離したことが重要であり、この分離の概念がコルビュジェの中に通底している。この分離をなしにして「大量生産」を訴えることはできない。その意味でコルビュジェはアルベルティ的なのだ。以下は項ごとの簡単なメモである。

Ⅰ 立体

われわれの目は光の下の形を見るためにできている。原初的な形は美しい形である、なぜなら、それらは明らかに見て取れるからである。今日、建築家はもはや単純な形を作らない。技術者は、計算し、単純な形を使い、幾何学によってわれわれの目を、数学によってわれわれの精神を満足させる。技術者の製品は大芸術に近づく。
ル・コルビュジェ『建築へ』 | p15
コルビュジェのいう「原初的な形」とは、立方体、円錐、球、円筒、角錐である。そうした「原初的な形」はあいまいでなく、最も美しいと彼はいう。古典建築が列挙されている。確かに、そうした幾何学が使われた建築は秩序だっていて美しい。ここではゴシック建築の尖頭アーチが「原初的な形」にもとづいていないために批判されている。次々と並ぶサイロの写真は、立体の強さを視覚的に訴えかけている。現実の写真という「表層」が、自分の仮説を強化する材料として載せられる。 建築へのサイロの写真
fig. サイロ | image via flickr.com | © Marten Kuilman | 『Vers une architecture』より引用

Ⅱ 面

立体は面によって包まれ、面は、立体の母線と導線によって分割されて、その立体の個体性を明示する。建築家は、今日、面の幾何学を恐れる。近代的な建設の大問題は、幾何学に基づいて解決されるであろう。絶対的な計画の厳しい要求に従って、技術者は、形を産むものとして明示するものを使って、清澄な印象深い造形的な製品を創り出す。
ル・コルビュジェ『建築へ』 | p25
コルビュジェは立体を包み込む面が「立体を食い吸収」してしまうことを危惧する。つまり、立体が立体としての強さを失うことを危険視している。「アメリカの工場」が原初的に単純な形に平らな面がついた例としてあげられる。その答えは、幾何学的なものである。図版は整然と並んだ外観を持つ建物群である。最後のページには、アメリカの摩天楼の写真がある。自身の建築が新しいものであると証明するために、摩天楼の上部の装飾には矢印が丁寧につけられ、アメリカの建築家は批判されている。

Ⅲ プラン(平面)

プランは生み出す母体である。プランがなければ、無秩序、放縦である。プランはそれ自身の中に感覚の本質を持つ。集団の必要が課す明日の大問題は、新に、プランの問題を提起する。近代生活は、家のため、都市のための新しいプランを持つ。
ル・コルビュジェ『建築へ』 | p35
コルビュジェはプラン(平面)こそが「生み出す母体」であると繰り返し述べる。「秩序立てが明快なリズム」を示しているならば、精神が満足するというのだ。そうした秩序付けを行うのがプランであり「プランそれ自身のなかに感覚の本質そのもの」を持つという。「聖ソフィア寺院」や「テーベの神殿」がプランへと解体された図が描かれる。これは現実から「深層」をつくりあげる方法である。その結果、歴史的建造物は次々と「表層」と化す。 さらに、アクロポリスやトニー・ガルニエの『工業都市』などが例として挙げられ、コルビュジェの構想が語られる。

03_規整線(指標線)

建築の宿命的な誕生について。秩序の義務。規整線は放縦にたいする保証である。それは精神の満足を与える。規整線は手段であり、処方ではない。それの選択と表現の仕方は、建築創造の綜合的部分をなす。
ル・コルビュジェ『建築へ』 | p53
幾何学的という点では、いずれの建築家も、理想的ヴィラのプラトン的原型とでも言うべきものに近づこうとしたのであり、そこには幻視的なヴェルギリウスの夢が結びつくと思われる。この住宅は立体の表象であるという観念が実現されるとき、ヴェルギリウスの夢という意図も果たされるのである。ここには絶対的なるものと偶然的なるもの、抽象と自然の衝突があり、理想世界とあまりに人間的な現実の急務とのギャップが悲哀に満ちて示されている。そこに橋を架けるのは見事に作曲されたフーガの構造のように競合的かつ強制的なるものであるに違いない。それはマルコンテンタの場合には、ほとんど宗教的とも言える真摯さで、ガルシュの場合には、ソフィスティケートされ、ウィットに富んだ隠喩で満ちているけれども、その構成が成功を収めているのは知的な行為によるものであり、それは設計条件にある根本的な精神の矛盾を解決しているのである。
コーリン・ロウ『理想的ヴィラの数学(マニエリスムと近代建築所収)』 | p24
前章において建築は「プラン」という深層と「立体と面」という表層に分離された。どちらか片方が重要なのではなく、どちらも重要である。分離された二つの層は、規整線(トラセ・レギュラトゥール)によって「保証」されなければならない。それが「建築創造の綜合的部分」という意味であると私は理解した。コルビュジェの建築が掴みにくいのは、この2つの層を往復していることによるものである。コルビュジェは「原始的な方法」をあげて、理念を強化する。「原始人」は自身の身体を用いて測るという作業によって「モデュール」をつくりだし、自身と調和する人間の尺度をつくる。これが基準寸法である。それと同時に、物体相互の距離を決めるときに「リズム」をつくり出す。その「リズム」というのが、構成するときに重要な規整となる。「モデュールが測り、統一し、規整線が構成し、満足させる」わけであり、「巧みな関係や調和ある関係の探究に向かわせる精神的な次元の満足」こそが規整線である。わざわざ「原始人」を提示するのは、「原始人」と「幾何学」という2項の媒介に「規整線(トラセ・レギュラトゥール)」を持ち込むためだと思う。そうして、建築の立面の写真や図面に対して次々と線を引いてゆく。暴力的にまとめるならば、幾何学を構成する際に、規整線を使って綺麗に調和させなさいということだろう。構成ではなく、構成を秩序づける規整線を重要視するのはコルビュジェの独自の視点である。この考え方はミケランジェロのカピトリーノから影響を受けたとされ、コルビュジェによるピュリズムの絵画『白い椀』などにも用いられていることで有名である。彼は二次元の中に建築を落とし込み、規整線を導入した。サヴォア邸の立面を見て欲しい。とても美しい。私は、このコルビュジェの絵画に対して、葛飾北斎の浮世絵の美学と同様なものを感じる。どちらも幾何学の構成を行った。片方は静的な「規整線」によって、片方は動的な「楕円形の視線運動」によって、幾何学たちを秩序づけようとした。さて、思い出すのはコーリン・ロウの『マニエリスムと近代建築』に所収された「理想的ヴィラの数学」という論考である。この論考は、ル・コルビュジェのガルシュのシュタイン邸とアンドレア・パラディオのヴィラ・マルコンテンタを比較してみせたものである。後述するが、上記のコーリン・ロウの引用は「絶対的なるものと偶然的なるもの」などの「深層と表層」を分離したボードレール的な視点を踏まえていると感じる。そうして分離された二つの層を「知的な行為」という架け橋で結びつけたという。アンドレア・パラディオの場合は古典主義者的なレパートリーの知的な遊びであり、ル・コルビュジェの場合は既知に富んだエレメントの知的な遊びである。両者に共通するのは「参照物」であるということだ。パラディオは直接的に古典を参照し、コルビュジェは分散的に歴史や現代を参照する。分散された参照物を相互に結びつけるためにコルビュジェは「それらが置かれている立体を人為的に空白」にしてしまうとコーリン・ロウはいう。重要なのは、コーリン・ロウはル・コルビュジェの作品に「絶対的なるものと偶然的なるもの、抽象と自然の衝突」の二重性を感じ取り、その架橋を見つけようとしたことである。コルビュジェは「人為的に空白」にするだけでなく、参照物たちを「規整線」によって秩序づけようとしたのだと思う。つまり「空白」にして「規整線」で結び付けようとした。それゆえ、パラディオには「比例」があるが「規整線」がない。ちなみに私はというと、そうした二つの層の架け橋を「体験」によってつなぎとめようとしている。 サヴォア邸の正面写真
fig. サヴォア邸 | ル・コルビュジュエ | image via flickr.com | © scarletgreen

04_見えない目

自動車は、単純な機能(走る)と複雑な目的(快適さ、耐久性、外観)をもつものであり、大企業に標準化を絶対に必要とさせた。自動車は本質的なものは全く同じなのである。疲れを知らない競争によって、自動車を造る無数の会社は、それぞれ競争を制しなければならないことに気づき、そこで、実現された実用的なものの標準の上に、実用的ななまの事実を超えた完全さと調和の研究が入り、完全さと調和だけでなく美の表現が入り込んだのである。そこから様式が生まれる。すなわち、誰も一致して感ずる完全さの状態の、誰も一致して認める獲得である。標準の策定は、合理的な要素を等しく合理的な方針に従って組織することから生ずる。包む形は、予め構想されるのではなく、結果として現れるのである。
ル・コルビュジェ『建築へ』 | p110
現代性とは、一時的なもの、うつろい易いもの、偶発的なもので、これが芸術の半分をなし、他の半分が、永遠なもの、不易なものである。昔の画家⼀⼈⼀⼈にとって、⼀個ずつの現代性があったのだ。
シャルル・ボードレール『現代生活の画家』(ボードレール批評II所収) | p169
コルビュジェは「新しい精神」がはじまったという。すなわち近代工業のつくり出す美学を称賛する。機械である。読んでいて分かるのは、コルビュジェが様式を徹底的に軽蔑していることである。この章は3つの項から成り立っている。商船、飛行機、自動車である。これらは建築が参考にすべき機械として提示されている。タイトルとなっている「見えない目」とは、いま目の前にある美しい機械の美学を見ようとしないことを指している。機械の時代がはじまっているのに、それに鈍感に装飾を追い求める態度を批判している。目を開けば、工場から出てくる素晴らしい製品があるはずだ。だから「見える目で見られよ」とコルビュジェはいうのだ。自動車とパルテノンの比較が特に知られている。重要なのは、機械の技術や製品美学を古典的な枠組みにの中に取り込もうとしたのであり、自動車を盲目に讃美したわけではないことである。これは、情報テクノロジーや社会的正しさを盲目に讃美する建築家には、耳が痛い話だろう。これらは、建築という枠組みに回収されてこそ意味があるのである。建築という枠組みに回収して思索するのが建築家の仕事である。そうして「標準」という言葉がでてくる。これは先ほどの「プラン」と同じ階層にある言葉である。またも「深層」と「表層」に分離される。「深層」とは「標準」のことであり、「表層」とは「包む形」なのである。 つまり「プラン」や「標準」という基盤から、階段を登るように洗練されてゆくという時間軸を伴った美学なのであり、それゆえ「包む形は、予め構想されるのではなく、結果として現れる」ものである。だから、「量産」と相反することはない。先ほど述べたように、この考えはボードレールの『現代生活の画家』という批評における「現代性」という概念と一致するのである。上記のボードレールの引用は要するに、「深層」と「表層」を分離させ、「表層」の地位を引きあげたことにある。この後の文章においてはいくつかの解釈があるものの、兎にも角にも「深層」と「表層」を分離させ、表層という移り変わるものの重要性を見出したのはボードレールである。繰り返すように、コルビュジェは「プラン」という深層と「立体と面」という表層を分離させ「規制線」によって結びつけた。ここではその関係性が「標準」という深層と「調整」という表層に分けられるのである。この戦略がコルビュジェの面白さなのである。どちらが重要なのか。どちらもの重要なのである。以下は項ごとの簡単なメモである。

Ⅰ 商船

ここに載せられた「アキタニア号」のコラージュは驚きである。ノートルダム大聖堂や凱旋門やオペラ座ですら包み込んでしまう大きな商船が描かれている。大きな商船が歴史的建造物を飲み込んでしまう様子が、ビジュアライズされているのが面白い。商船は輸送の道具であることを忘れて、新鮮な眼でみるととても美しいという意味において、機械を称賛している。船というのが新しい土地に向けて走るという船出のニュアンスも込められているのだろう。船のメタファーはユニテ・ダビタシオンへ繋がってゆく。

Ⅱ 飛行機

飛行機というは問題設定の論理を教えてくれる。飛行機をつくりあげた精神は、パルテノンがつくりあげられた精神と同じという。「鳥のように飛びたい」という望みを解決したのではなく、飛ぶために揚力と推進力を探究した結果として飛行機は生まれたという。このように、正しい問題設定をして、それを洗練させることではじめて美学や調和という建築の本質的な目的に到達できる。住宅も同じである。住むために精緻に組み立てられなければならない。そこで問題設定が並列された「住まいの手引き」が提示される。

Ⅲ 自動車

問題に立ち向かうために「標準」を作定しなければならないとコルビュジェと言う。ひとたび「標準」が作られると、その後の競争のよって細部が追求されてゆく。パルテノン神殿とドゥラージュの自動車が並べられる衝撃的な場所である。正しい問題設定の上に作成された「標準」がまずあり、それを基盤に美学が追求されてゆく。例えば、自動車は、走るという機能を軸に調整や追求を繰り返して洗練させることで美学を持った。

05_建築

明確に表明する、作品を統一によって生気づける、作品に基本的な態度、性格を与えることは、精神の純粋な創造である。このことは絵や音楽には受け入れられるが、建築は実用的要因にまで引き下げられる、婦人室、便所、放熱器、鉄筋コンクリート、円筒天井、尖頭アーチ、など、など。これらは、構造であり、建築ではない。建築、それは詩的感動があるときである。建築は造形の問題である。(中略)建築のほとんどすべての時代は構造の研究に関わってきた。しばしばこのことから、建築は構造であると結論づけられる。建築家の提供する努力は主としてその時代の構造の問題に向けられていたかもしれないが、それは混同する理由ではない。
ル・コルビュジェ『建築へ』 | p176
前の諸時代からわれわれに残された美しい肖像画の大部分は、その当時の衣装をつけている。これらの肖像画が完璧に調和の取れたものであるのは、衣装、髪かたち、さらには身振りや眼差しや微笑までもが(どの時代にも、それぞれ独特の身のこなし、眼差し、微笑というものがある)、完全な生命感をたたえた一個の総体を形づくっているからだ。一時的で、うつろい易く、かくも頻々と変貌をとげるこの要素を、あなた方は軽蔑する権利もなければ、これなしですます権利もない。この要素を抹殺するならば、否応なしに、たとえば人類最初の罪以前の唯一の女性の美といったたぐいの、抽象的でとらえどころのない美の、空虚のなかへと落ち込むのほかはない。
シャルル・ボードレール『現代生活の画家(ボードレール批評II所収)』 | p169
「標準」というものが設定されてはじめて美学の話へと入ることができる。建築とは「有用なものを越えるところにある」のだ。「多少とも実用的な計画」に基づきながら、そこから脱して「感動させる関係」を打ち立てる必要があるとコルビュジェは述べる。上記の引用においてもコルビュジェは「構造」と「建築」を分離しようとした。なぜ、そんなことをするのかは明白である。「構造」という実用的要因のところで留まり、建築家が詩的感動を与えるという建築の役割をまっとうしていないからである。それゆえ、「プラン」や「標準」や「構造」などというものは当たり前にクリアして、その先の努力をしなさいと強く訴えているのである。それこそが「深層」と「表層」の分離を繰り返し唱える理由である。まず「プラン」や「標準」や「構造」などは正しい問題設定のもとに当然のようにクリアしなさい。そうして、「刳り型(モデナテュール)」というその先の問題(精神の純粋な創造)に立ち向かいなさいということである。少なくとも私はそう理解した。建築の領域をきちんと自覚して、そこに焦点を当てなさいという意味である。ドミノシステムというのは、建築の「標準」の次元でのコルビュジェの回答なのである。またしてもボードレールの引用で申し訳ないのだが、やはり私にはコルビュジェとボードレールがどうしても重なって見える。上記のボードレールの引用は、絵画における「衣装、髪かたち、さらには身振りや眼差しや微笑」といった一時的なものが「一個の総体を形づくっている」ことが大切だという。つまり当時において評価の対象となりえなかった「表層」を議論に持ち込むために、「深層」と「表層」を分離した。そうして、その「表層」に「現代性」ととりあえず名前を付け、そちら側に可能性を見出したのである。これが、コルビュジェと重なって見えずに、何が見えるのか。コルビュジェは膨大な量の情報を自分ごとにしていく態度は、世界のあらゆる様相を色褪せぬままに手元に引き寄せるコンスタン・ギースの態度と同じである。ピュリズムという絵画形式は、世界を「表層」の世界へと引きずり込むために対置された一つの世界像の設計作業である。要するに「深層」というものにいつまでもこだわらず、その先の美学の問題へ行き着く必要があるのだ。そのためにコルビュジェは「深層」を捏造した。以下、簡単なメモ。

Ⅰ ローマの教え

ローマ人は世界を征服するために、単純明快な秩序を設定した。「ローマ的」である秩序立てをする。「手段の統一、意図の強さ、それを支える鼓胴、壮大な円天井」などの「単純な立体」が現れる。単純な立体は巨大な面を展開し、立体によって特徴的に現れる。つまり、ローマから立体という「深層」を発見することで。ローマ自体を「表層」へと置き換えた。その後、聖マリア教会堂が絶賛され、ミケランジェロが発見される。 ローマと立体のスケッチ
fig. ローマの教え | ル・コルビュジュエ | image via esearchgate.net | 『建築へ』より引用

Ⅱ プランの幻覚

「プランは内から外へ進み、外部は内部の結果である」という。住宅というのは「生命ある存在と同じ有機体」であるから「内部の建築要素」から語るという。そうして内側から立ち現れたものが重要であるのだが「人間の目」を忘れると虚栄となってしまう。つまり、プランが外部から眺められるような客体であってはならない。外から内へ押し付けてはならない。そのような間違ったプランから立ち上がる建築は嘘まみれであり、それを「プランの幻覚」と呼ぶ。「プランの幻覚」とは間違った「表層」のことである。

Ⅲ 精神の純粋な創造

顔と建築をアナロジカルに語るのが面白い。美しい顔とは「各部分の特質」と「それらを統一する関係」の価値だという。つまり、パーツが美しくて、それでいて、正しく配置される必要がある。軸線などの構成が完成してはじめて、「刳り型(モデナチュール)」という部分の洗練に移行できる。それが「精神の純粋な創造」である。そうして達成された極地がパルテノンなのである。 パルテノン神殿
fig. パルテノン神殿 | image via flickr.com | © foundin_a_attic

06_量産住宅

なぜなら、量産(同型連続)住宅は、自動的に広く大きな設計計画を含むからである。なぜなら、量産住宅は、家の全ての物体の徹底した研究と標準、類型の探究を必要とするからである。類型が創り出されるとき、われわれは美の入り口にいる(自動車、商船、車輌、飛行機)。なぜなら量産住宅は、要素の統一、窓、戸口、構造方法、材料の統一を課すからである。細部と大きな全体設計の統一、それは、ルイ十四世の世紀に、雑多で、過密で紛糾して住めないパリで、優れて知的なロージエ神父が都市計画に関与して求めた「細部における画一性、全体における賑やかさ」(われわれのしている細部の狂ったような多様性と街路や都市設計の途方もない画一性とは反対のもの)である。
ル・コルビュジェ『建築へ』 | p210
ル・コルビュジエにとって、建築作品の敷地に対する関係やその物質的実現は二次的な問題だったと、スタニスラウス・フォン・モースは書いている。つまり彼にとって建築とは、観念の純粋な領域で解決されるべきコンセプチュアルな問題だったのであり、それが建てられるや、現象する世界に混濁され、必然的に純粋性を失ってしまうものだったのだ、と。だが重要なことは、この同じ建てられた建築の一片が印刷物の二次元の空間に入り込んでくるや、今度は再び観念の領域に回帰していくことである。写真の機能とは、たまたま建てられた建築の鏡像として反映することではない。建設は建築の過程における重要な瞬間だが、しかし決して最終成果品ではないのだ。写真とレイアウトがページの空間に、もう一つの建築を築き上げよう。概念化とその実行、そしてその複製は、伝統的な創造過程では別個で連続した時間だった。だが、ル・コルビュジェの錯綜した制作過程では、このヒエラルキーは失われてしまう。建てることの概念化とその複製=再生産は、再度交錯するのである。
ビアトリス・コロミーナ『マスメディアとしての近代建築』 | p090
コルビュジェは「量産住宅」を提案する。細部と大きな全体設計の統一を試みる。この章には、一連の提案が豊富なスケッチと共に紹介されている。おそらく、自作を売り込むためのものだろう。有名なものは「ドミノ・システム」や「シトロアン住宅」や「モノル住宅」の構想である。住宅は自動車のように大量生産し得るシステムを合理的につくり出そうとした。家をどのように制作するかを考えたのである。ここで重要なのは、プロジェクトがいくつも提案されていることである。「量産住宅」というのは、画一的なものではなく、いくつもの形態があり得る。繰り返すように「深層」と「表層」が分離しているからこそ、複数の形態がありえるのである。「表層」は一時的で移ろうものなのだから、複数の形態の可能性を持つのである。ビアトリス・コロミーナは『マスメディアとしての近代建築』においてメディアと建築についての素晴らしい分析をしている。上記の引用を見ると「印刷物の二次元の空間」に現れる建築について思考し、建築そのものが「再び観念の領域に回帰していく」ことを指摘する。「メディアという空間」と「現実という空間」が繰り返し往復され、「複製=再生産」を通じて交錯してゆく。つまり、「メディアという空間」を用意することで、現実を「表層」と化す。コルビュジェがメディアという領域にこだわり抜いたのはそのためである。それゆえ、竣工後の建築のスケッチを繰り返し描くなどの奇妙なことをする。そうして「メディアという空間」と「現実という空間」を何度も往復する。既に見てきたように、コルビュジェは絵画においても、建築においても、生産過程においても、「深層」と「表層」の意図的に分離させて、それを繰り返し交錯させる方法を選択している。もちろん、「深層」と「表層」という言葉に落とし込まれるのかは分からない。ただ、恣意的に2つの項に分離させるようなことをして、2つの項の中での調和を図るような方法を模索しているように思えてならない。それは、ブランコ(memo0003)のように絶え間なく流転する弁証法に近い。その流転のなかでも、調和を図るために「規整線」という概念をつくる。ただ、私はこの2つの項を媒介したのは、「規整線」などの目に見えるものや「知性」という抽象的なものではないように思う。2つの項を媒介は、コルビュジェ自身の、編集やスケッチなどの、絶え間ない「体験」なのではないかと思えてならないのだ。コルビュジェは「体験」によって、世界を変様させてしまったのだ。

07_建築か、革命か

絶対命令である近代の精神状態と何世紀もの残骸の息づまる蓄積との間に、大きな不調和が現れている。それはわれわれの生活の客観的事物に関わる適応の問題である。社会は、得るか得られないかのものを強く望んでいる。すべてはそこあり、すべては、どれだけ努力するか、どれだけ注意を危険な徴候に向けるか、に懸かっている。建築か、革命か、革命は避けることができる。
ル・コルビュジェ『建築へ』 | p210
この章は工業と共に現れる精神を称え、「歴史様式」から逸脱して新しい「時代の様式」を考えるべきだという。家族の仕組みが工業のやり方によって変化しているが、住宅は依然として醜悪である。住宅はあたりまえに達成されるべき「構造」すら満たしていない。そこで、工業に目を向け「量産の精神状態」をつくりあげる必要があるとコルビュジェはいう。「工業は新しい道具」をつくり「企業はその習慣」を変えた。「建設がその方法」を見出し、「建築は、変更された法規」を前にしている。あとは建築が変わるだけである。そこであの有名な言葉が出てくる。「建築か、革命か。革命は避けることができる。」と。コルビュジェの言葉はとても力強く、私たちを動機づける。時代をしかと見極め、建築にできることを考えた功績はやはり素晴らしい。ただ、情報テクノロジーが発達し、当然のように「標準」がクリアされている現代の東京においては、ただならぬ憂鬱と留まることのない閉塞感が蔓延している。コルビュジェの戦略はとても役に立つだろう。世界を恣意的に2つの項に分離させ、その調和を導くのである。私の言葉を使うならば、世界を恣意的に2つの項に分離させ「体験」によって変様体をつくりだすという戦略である。兎にも角にも、建築家の方も建築を学んでいない方も、この本は必読である。
山地大樹 / Daiki Yamaji
memo / 2021
ル・コルビュジエ『建築をめざして』
00  概要 (『建築へ』と『建築をめざして』)
01  技術者の美学、建築
02  原点に復帰の三つの呼びかけ 建築家諸君に
03  規整線(指標線)
04  見えない目
05  建築
06  量産住宅
07  建築か、革命か
✽ 著者や出版社の不利益にならないような読書メモを意識しておりますが、もし著作権や引用等の違反等がありましたら、早急に対応いたしますのでご連絡ください / We are careful about copyrights with respect to the creator and publisher, but if there are any violations, please contact us.We will deal with this as soon as possible.
Related link
Advertisement
AFTER POST OFFICE. →  Texts → ル・コルビュジエ『建築をめざして』