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宮台真司・速水由紀子『サイファ覚醒せよ!/世界の新解読バイブル』#1

文章 山地大樹
サイファ覚醒せよの表紙画像
宮台真司・速水由紀子『サイファ覚醒せよ!』の読書メモです。街を散歩して美しい花を見つけるように、本を読んで心を惹かれる断片を集めています。体系的なものではありませんから、あしからず。

01_まえがき

なぜなら、アイデンティティの基盤をこの社会の内部に求める限り、社会や周囲の変化と共に自己の価値付けも揺らぎ、あるいは消失してしまう可能性が少なくないからです。(中略)だからこそ、この社会の内側には準拠しない、第四の帰属という概念が必要になります。つまり、この世界で生きることを自明のこととして社会の外側から動機づけてくれる、無条件の理論的な受容とか承認です。
速水由紀子『サイファ覚醒せよ!』 | p7
その住宅を建てる敷地が美しくなくても建築家は美しい家をつくる責任がある。(中略)敷地が美しかろうと美しくなかろうと、あるいは、広かろうと狭かろうと、そんな〈偶然の条件〉から設計を出発させてはなぬ。いいかえれば、住宅の設計は敷地の形や環境から独立した発想の上に足場を置くべきだという意味なのである。
篠原一男『アフォリズム・篠原一男の空間言説』 | p67
□memo□
現在において、アイデンティティはゆらゆらと揺らぎ、消えてなくなりそうだ。アイデンティティの基盤をどこに求めるべきか。そこで、速水は「第四の帰属」という概念を持ち出す。速水由紀子のいう第四の帰属とは、第一の帰属である家族、第二の帰属である会社、第三の帰属である自分、そしてもうひとつ必要であるということ。社会学者の宮台真司は「多元的所属」という言葉で整理している。さて、宗教の神々が果たしていた第四の帰属の役割は、現代において何で代用されるのか。そもそも、そんなものがあるのか。それを解明してゆく刺激的な本である。こうした議論は建築にもリンクしてくる。建築のアイデンティティの基盤をこの社会の内部に求める限り、それは消滅してしまう可能性が少なくないかのだから。建築のアイデンティティをどこに求めるのか。篠原一男は1964年に上記のような言説を出し、建築は「敷地の形や環境」といった曖昧なものに立脚してつくられてはならないと強く伝えている。その後に篠原は「私の出発点は住宅の広さを示す数字だけである。」と述べている。

02_レベルⅠ / 「社会の底が抜けている」ことに気づけ

言い換えれば、他者や社会とまったく無関連な場所に、自らの尊厳を樹立することができるようになりました。その結果、モノと人の区別がつけられず、まったり人を殺すことができるような「脱社会的存在」が出現してくるようになったんです。
宮台真司『サイファ覚醒せよ!』 | p12
確かに、若者だけではなくて、一人住まいの高齢者にとってはコンビニに行って店員に会うだけでほっとするということもあるのだと思います。コンビニはすでに重要な社会インフラになっているのだと思います。(中略)「毎日行きたくなるような建築」と「公共建築」とは、もはや相互に矛盾する言葉のように感じられているのかもしれませんね。つまり、いつでも行きたくなるような場所のイメージと、公共建築というもののイメージがまったく結びつかないのではないかと思います。
山本理顕『未来の住人のために(OURS TEXT 001)』 | p34
□memo□
宮台は「コンビニ化・情報化」と「学校化」が重なりあって進行する1980年代以降に精神分裂病の報告件数が急速に減ったという。つまり、精神分裂病としては測定できないような存在が増えたということ。「コンビニ化・情報化」とは、Eメールや宅配を使ってだれとも会わずに暮らせること。「学校化」とは、他社との社会的交流なしでも、成績などの簡単なことを通じて肯定されるようなこと。こうした「コミュニケーションを通じた達成の外側にいる人」が増加しているという。これは病気ではなく、あるシステムや環境の中で当然に生まれ落ちた人々である。その解決の方法として宮台は「学校化」を解体して、学校行政プログラムと地域行政プログラムに置き換える提案の必要性を述べる。参考すべき文献は、グレゴリー・ベイトソンの『精神の生態学』と、ロナルド・ディヴィッド・レインの『狂気と家族』などが重要。「ダブルバインド理論」や「分裂症的家族環境」がキーワードであり、「脱社会的存在」の成立過程は簡単に説明可能。建築はこうした環境にどのように寄与しているのかに自覚的になる必要がある。山本理顕が述べるように、コンビニが身近になりふらっと立ち寄って情報を得られるようになったのが1980年以降だとすると、この現象と建築の関係性を指摘することができないか。「脱社会的存在」が訪れる場所は公共建築ではあり得ないだろう。外に出るとしてもコンビニなどにふらっと行くだけだろう。宮台は、フロイトやラカン派の話を持ち出した後、このような人たちをこうまとめている。
その同年代の人たちは、第一に、幼児的全能感を切除されていないという意味で「他者」がおらず、「他者」による否定を受容できない連中が多いし、第二に、精神分裂病であるかどうかは別にして、コミュニケーションの文脈に適切に反応できない連中が多いと思う。
宮台真司『サイファ覚醒せよ!』 | p25
今や住宅は擬態であるからこそ価値があるんじゃないかと思うんですよ。擬態を演じないと家族というユニットが崩壊してしまう。近代家族の理念が虚構でしかないということがわかっても、それでもなぜ家族というものが崩壊しないでかろうじて残っているかというと、住宅という擬態があるからなんだと思うんです。
山本理顕『家族を容れるハコ 家族を超えるハコ』 | p137
□memo□
つまり「父親の審級」が機能していない。社会の底が抜けている。どこかが欠けている。欠けていることに気がつかないのか。それとも、まったく欠けていない。欠けていないことに気がつかないのか。何かが足りない。どこか乾いた憂鬱の中に溺れている。渋谷をひとりで歩いているような感覚。何を頼りに自己の存在理由を探してゆけば良いのか。建築が他者を隔離したのはいつからだろう。原初的な共同体やインターネットのない社会において、建築は「他者」と切り離さすような構造を持っていたとは思えない。個室という空間やダイニングという空間はこうした現象を加速させてしまっただろう。個室の中にいても、インターネットを通じて社会と繋がる時代において「他者」がいなくなりつつあるともいえるだろう。その意味において、身体的な距離を考えるなら、住宅は最後のセーフティネットなるのかもしれない。ジャック・ラカンによると、生後6ヶ月から18ヶ月の期間の中で、鏡像の中に自分と同一視できるものを見つけ、統一された自己を先取りするという。ならば、生後6ヶ月から18ヶ月に「他者」と触れ合う機会をつくる必要がある。そのために住宅のプランニングは塾考される必要がある。そして、両親が崩壊している場合もあるので、そのあたりの建築の功罪をしかと受け止め、建築家は家族というものを考え直す必要がある。その辺りの話は上野千鶴子の『家族を容れるハコ 家族を超えるハコ』という本が参考になる。また、そうした「他者」と接続するような方法があると考えると、学校建築の教室計画にも大幅に変更できそうである。兎にも角にも、こうした状況は、建築で解決することもあるはずだ。建築とはある種の権力であるので、無意識のうちにコミュニケーションを生み出す仕組みを内在化させることができるだろう。それが、成立過程からの改善の方法だとする。一方で、もし仮に脱社会的存在が社会で増加したならば、この人たちがどこに行くのかを考える必要があるだろう。つまり、もう既に「脱社会的存在」になってしまった人たちが、危険なものに染まらずに行けるような場所が必要である。やはり、コンビニのような何かなのだろうか。漫画喫茶のような場所なのだろうか。この手の話は森川喜一郎の『趣都の誕生』などは参考になる。それとは別に、インターネットによって繋がるような仕組みを真面目に考えることも大切だろう。

03_レベルⅡ / 「第四の帰属」がなぜ必要なのか?

□memo□
こうした状況を踏まえて、何ができるのか。その時に求められるのものを、速水は「第四の帰属」であり「社会」の外側にあるものと唱える。「第四の帰属」を説明するにあたり、宮台は「社会」と「世界」の違いが歴史的にどう位置づけられるのか整理して応答する。古い共同体では「社会」と「世界」は一致していた。しかし、近代社会ではコミュニケーション可能なものを「社会」と呼び、「世界」はそれを超えたものとなる。そして宗教と無関係に「社会」が成立しだす時、「世界」に対しての「自分」の位置付けが分からなくなると。そこで、速水は覚醒をすることを提案する。
そのことに気づいてほしい、つまり「覚醒」してほしい、という提案です。社会はとてもたくみに私たちを「マインド・コントロール」しているからです。
速水由紀子『サイファ覚醒せよ!』 | p32
しかし、もちろんの事、能の役者には現実の肉体があり、能舞台も、木や瓦といった物質で構成されている。物質を用いて、しかも物質(オブジェクト)批判を行うこと。そこに能の逆説があり、またそこに能の醍醐味がある。残念乍ら、宗教においてはこの逆説は顕在化しない。宗教の中核は言説であると、一般的には理解されているからである。宗教はそもそも物質から隔離された心の世界の問題であると誤解されているからである。物質がなければ心もない事が、忘却されているからである。ゆえに宗教はテクストによる物質批判という、退屈な形式へと堕ちやすい。
隈研吾『反オブジェクト』 | p137
□memo□
速水のいう「覚醒」とは、「社会」の外側にあるものとの出会いであると捉える。しかし、それを宗教的な空虚なものに、歴史的な文脈なしに頼ると大きな危険がある。空虚なものである「物質から隔離された心の世界」と「覚醒」が結びつくと危険である。現実という物質世界に生きているのだから、それを無視するようなものを信じると、現実は途端に軽くなる。特に建築家は現実として物質をつくるからこそ、そのことに最も敏感であるだろう。その意味で大切な職業である。隈研吾の言説を見ると、能は「物質を用いてしかも物質(オブジェクト)批判を行うこと」であるから、物質を忘却しておらず、それゆえに緊張感溢れる行為が可能になる。もし建築に可能性があるとするならばここにおいてだろう。物質を放棄することでは決してなく、物質によって物質の外側へ飛び出す。そんな物質について思索するのが、建築家という生き物である。さて「マインド・コントロール」の方についてだが、日常生活を送るうちに「無意識な刷り込み」がある。「社会」の内側にのみに閉じこもると「無意識な刷り込み」が自明のことのように思えてくる。そこで「社会」の外側にある「世界」に対してどう接続するのかが大切であり、それが「覚醒」である。例えば、「社会」が内側に閉じこもっている現象のひとつとして、日本の予備校システムが挙げられている。つまり、学校の成績という評価軸がほぼ全てを占めて支配的になる。そのシステムに安易にすがっているのが大学受験であり、これを「学校化」と呼ぶ。つまり「家族幻想の空洞化を、学校幻想で埋め合わせた」のである。大学受験や家族像には大きな「刷り込み」があるのは明らかであり、学校の評価軸を失うと、自分の尊厳も失われてしまうように感じる。だからこそ、外側の物差しが必要である。その閉じられた社会を超えるためには、能のような方法があるかもしれない。つまり、閉じられた世界を徹底することで、閉じられた世界を批判するということである。ひとりひとりが、旅行や武道や読者など、何かひとつ徹底するだけで、そうでない世界にたどり着くことができるはずだ。宮台のここでの答えは「多元的所属」が可能な場をつくることである。
要は、覚醒した状態での選択があるかどうか、そして、それによって選択の責任を自覚できるかどうかが、問題なんです。同じゲームをやるにしても、他のゲームとの間で相対化するというチャンスが与えられているかどうか。それが与えられていることで、アタッチメント(没入)とデタッチメント(離脱)を随時とりかえることが可能になっているかどうか。いいかえれば、どういう自意識の下で競争に参加しているのかということこそが、問題であるわけです。
宮台真司『サイファ覚醒せよ!』 | p42
身体的に分離し視覚的に結合するという、この「フレーミング」による戦略は、ロースの他の室内でも何度となく繰り返されるものなのだ。
ビアトリス・コロミーナ『マスメディアとしての近代建築』 | p160
□memo□
つまり、様々な場所に所属して「異なる物差し」でものを見る機会が必要がある。建築では、学校と自宅の往復や、職場と自宅の往復では、空間を相対化するチャンスはない。特に面白いのは「アタッチメント(没入)」する必要性を述べていることである。「多元的所属」というように、中に入り込む必要があるわけで、美術館の美術品のように外側から眺めているだけでは意味がない。図書館や美術館はより重要な役割を担うだろうが、どこか自分ごとの空間にならない。つまり没入できない。「アタッチメント(没入)」して「デタッチメント(離脱)」するような場所はどこにあるのか。住宅という枠を越えるのならば、ルームシェアというのは可能性があるかもしれない。渋ハウスなどはその典型例だろう。さて、学校の中だけでうまく評価されていても、意味がない。しかし「異なる物差し」を知らなければ、尊厳を保つために学校的な評価軸にすがることになる。様々な場所を点として捉えるのではなく「異なる物差し」で測るほど没入し、そして離脱できる場所が必要である。寺子屋や部室というのは、可能性がありそうな空間性だ。少し別の見方をするならば、こうした学校的な評価軸を求める「お稽古」の場所に、忍び込むということは可能性がありそうだ。ピアノ教室やバレエ教室や予備校などの空間を変えることで、内側から離脱できる場所をつくることができるかもしれない。建築の話に置き換えるのならば、アドルフ・ロースの建築におけるフレーミングの手法には大きな可能性があるだろう。二重の視線をつくりあげることで、外側から自分たちがさっきいた場所を見て、相対化することができる。個室が外に向かうだけではない視線が必要である。アドルフ・ロースの建築の場合、もう少し複雑な視線のヒエラルキーがあるのだが、詳しくはビアトリス・コロミーナ『マスメディアとしての近代建築』を参照して欲しい。また私がとなている「体験(lived experience)」を設計することによって、建築側から二重の視線的な関係性をつくることもできるだろう。さらに、宮台は、家計における教育費の割合、小中学生の塾通いの急増などの統計データから、1975年頃から「学校化」が顕著になったと述べる。そして、その時期が日本人のパブリック・マインドの欠如する時期と一致するという。パブリック・マインドとは、内輪の目線だけを気にするようなものではなく、その外側への想像力やルールの領域をいう。兎にも角にも、内側と外側を往来できるような視線は必ず求められる。内輪のみで終わると、外側に対しての想像力が欠如する。責任を回避するためだけの謝罪会見などは、その外側への想像力の欠如の問題だろう。建築も、敷地内だけで完結して、内側のみを問題として良いのだろうか。いかにして外側への想像力をつくれるというのか。例えば、回転寿司やマッチングアプリや連歌は、外側への想像力を掻き立てる要素があるという意味で可能性がありそうな仕組みである。
社会システム理論では、「真理」とは、権威ある者が言ったからではなく、またそれを受け入れることが共同体的に期待されているからでもなく、単にそれが「真理」であるということだけで、自らが体験していないことを、あたかも自ら体験したかのように受け入れるための、特殊な動機づけと期待形成の装置だと考えます。(中略)要は文脈と無関係に直進するところに「真理」の特徴があるというわけです。
宮台真司『サイファ覚醒せよ!』 | p71
とにかく、このなんでもないただの紙箱に、誰かもぐって街に出たとたん、箱でも人間でもない、化物に変わってしまうのだ。
安倍公房『箱男』 | p13
「大組織のつくる建築はなぜつまらないのか」。それは大組織が設計した建築だからである。理由も何もない。ただ大組織が設計したというそれだけの理由で、その建築は退屈でくだらなく、唾棄すべき代物に見えてくる。
隈研吾『建築の危機を超えて』 | p213
□memo□
つまり、こうした共同体に所属しない「超越的な視線」があるという発想無くして「真理」はあり得ない。そして、そうした発想そのものが日本にはないと宮台は述べる。確かに、日本には「超越的な視線」はない。建築家は「超越的な視線」から建築を押し付けるようなものであってはならないだろう。平安時代の寝殿造にはそうした「超越的な視線」があると思えないし、俳句も「俳諧連歌」から発句を取り出したものだとするならば「超越的な視線」はない。別の回で、絵巻の吹き抜け屋台は鑑賞者の視点であり、海外のアクソメ技法は無限遠からの神の視線と述べたが、絵画においても日本の場合は焦点が鑑賞者に引き寄せられている。安倍公房の『箱男』には「超越的な視線」はなく、日常に潜んだ男の視線だけであり、その「紙箱」を被りさえすれば、誰でも「化物」に変わる。つまり「紙箱」を被るという「体験(lived experience)」によって、生活世界の内部から外部への回路をつくり出そうとしている。宇野常寛の『リトル・ピープルの時代』という本では、「ウルトラマン」という回路が、1971年頃を境に「仮面ライダー」という回路へと切り替えられたという指摘がある。これも「超越的な視線」の解体と捉えられる。別の言い方をするなら「変身」という「体験(lived experience)」によって、生活世界の内部から外部への回路をつくり出そうとしている。非キリスト教文化圏の日本では、こうしたやり方にしか可能性が残されていないと思う。さて、隈研吾は『建築の危機を超えて』において、「大組織が設計した建築」が「ただ大組織が設計したというそれだけの理由」で批判されている状態があり、その状態が定常化していることを批判している。これも、仕組みの内部を無批判に受けれてしまうことだろうから、一度冷静になって考え直す必要がある。ところで、非キリスト教文化圏である日本が近代化を遂げたのは、近代天皇制が「同じムラ的共同体に住う人々の視線」からの離脱を強制する役割を果たしたからであると宮台は述べている。それほどに日本は内輪的なのである。「共同体と無関連な「正」とか「義」という概念がもともと日本にない」こともよく知られているという。そこで必要になるものはなんなのか。真理や超越的な視線ではなく、外側をつくり出すことは可能なのか。常に枠の中にいるようなものはどうもよろしくない。
僕の教育改革の目標はそのことに関係していて、基本的には、共同体に回収されないような動機づけのメカニズムを、いかに宗教に頼らずに、周到に設計できるかということに眼目があるわけです。
宮台真司『サイファ覚醒せよ!』 | p72
ロンドン万博は、まさに観光客=遊歩者の天国としてつくられていたのである。観光客は、訪問先を、遊歩者のようにふわふわと移動する。そして、世界のすがたを偶然のまなざしで捉える。ウィンドウショッピングをする消費者のように、たまたま出会ったものに惹かれ、たまたま出会ったひとと交流をもつ。だからときに、訪問先の住人が見せたくないものを発見することにもなる。
東浩紀『ゲンロン0 観光客の哲学』 | p36
□memo□
「脱共同体的な動機づけを一定量調達」することを、宗教に頼らずに作り出すにはどうすれば良いのか。言い換えると、共同体をつくり出すことと同時に「脱共同体的な動機づけを一定量調達」しなければ、外側への想像力を欠いた集団が出来上がるということである。他者が不在の共同体は、外側を排除してしまう。宮台は「隣人愛」は「自分(たち)だけが救われていいのか」ということを、複雑な社会に問うたものであるという。つまり、いかに内側は素晴らしくても、外側ではエゴイズムへと転化するが、本当にそれで良いのかということを問うたのだ。このあたりの話はリチャード・ローティの話との関連も探れるだろう。近年の建築の共同体をつくり出そうとする提案は、その外側を排するという意味においてとても危険である。ユートピアをあげるまでもなく、敷地の外側を無視して良いのか。壁を一枚つくることで、共同体を囲い込むのはあまりに危険すぎないか。一方で、その暴力性ゆえに建築は可能性が多く残されている。壁を一枚つくることで、共同体を物理的に切断し、あちら側を作り出すことができる。あちら側を作り出し、こちら側とあちら側の没入と離脱を繰り返すことを物理的に強制できる。つまり、あちら側への動線を確保し、移動や運動を導入すると、脱共同体的な運動を強制することになる。その時「ふわふわ」と移動する視点は、観光客さながらである。観光客のようなふわふわした存在が持つ「偶然性」にはまだ多くの可能性があるだろう。そして、それを生み出したのが、水晶宮という建築であるということを意識する必要がある。もちろん、そのことでまた新しい外部をつくり出してしまうということは自覚しなければならないが、建築の権力はこうした方向で利用できるかもしれない。また、連歌というのは、その後の人へと続く想像力を掻き立てるという意味において、かなりの可能性がある。繰り返すが求められるのは、外側への想像力である。宮台は「多元的所属」や「準拠集団」の解説をし、「準拠集団」が必要になる背景を語る。「準拠集団」とは「現実には所属していない別の集団や文化の人物のフレームを参照する」という意味。つまり、理念的な帰属対象を持つということである。これが、重要なのはそれが「所属集団」と異なるということで、これが「異なる物差し」を提供できる。例えば、日本的ヒップホッパーはアメリカ黒人たちを「準拠集団」としている。建築は「準拠集団」のようなものを生み出すことはできるのか。別のところにある何かから、フレーミングをし直すようなことができるのか。「準拠集団」的な概念は主体の意識の中の話になるので、外側の物質で表現は難しい。しかし、先ほど述べたように、アドルフロースの建築やベンヤミンのパサージュには大きな可能性があるだろう。つまり、二重の視線の議論に持ち込むことはできるだろう。五十嵐淳による『case』という作品に見られる階段は着目できる。長谷川豪による『五反田の住宅』という作品の中央の挟み込まれた階段や、安藤忠雄の『住吉の長屋』における中央の中庭の橋などは二重の視線を生み出す効果がある。いまさっきいた場所に背を向けて、もう一度別のところから見る視線である。他の方法としては、ムトカ建築事務所の『天井の楕円』は、日常世界の床面を視線の高さにつくり、外側の視点をもうひとつ作り上げている。古澤大輔による『古澤邸』は梁の上にもうひとつの「脱共同体的」な外側の領域をつくりあげていることで特筆すべきだろう。こうした建築言語はこれから重要になると感じる。住宅において、その住宅を外側から見直す視線を欠かしてはならない。さて、そうした議論を踏まえたとしても、速水はもうひとつ次元をあげたアイデンティティになりうるものが必要だと繰り返す。つまり、さらに上にある上位概念である。果たしてそれはなんなのだろうか。そんなものがあるのだろうか。
山地大樹 / Daiki Yamaji
memo / 2021
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宮台真司・速水由紀子『サイファ覚醒せよ!』
01  宮台真司・速水由紀子『サイファ覚醒せよ!』#1
まえがき /  レベルⅠ (「社会の底が抜けている」ことに気づけ) /  レベルⅡ (「第四の帰属」がなぜ必要なのか?)
02  宮台真司・速水由紀子『サイファ覚醒せよ!』#2
レベルⅢ (自分自身の「聖なるもの」は何か、に覚醒せよ) /  レベルⅣ (「サイファ」とは何か?) /  レベルⅤ (「サイファ」として生きる)
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