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宮台真司・速水由紀子『サイファ覚醒せよ!/世界の新解読バイブル』#2

文章 山地大樹
サイファ覚醒せよの表紙画像
宮台真司・速水由紀子『サイファ覚醒せよ!』の読書メモです。街を散歩して美しい花を見つけるように、本を読んで心を惹かれる断片を集めています。体系的なものではありませんから、あしからず。はじめから読みたい方はこちらへ移動してください。

04_レベルⅢ / 自分自身の「聖なるもの」は何か、に覚醒せよ

□memo□
宮台は「表現」と「表出」を混同しないよう訴える。「表現」は外に押し出すことであり、相手に印象を与えられるかどうかによって測られる。「表出」はエネルギーを対象に注ぐことで自分にカタルシスが起こったかどうかによって測られる。「表現」と「表出」を混同すると、大きな間違いが生まれてゆく。つまり「表出」を「表現」だと勘違いする横暴な人がとても多いということ。
すなわち、実際にどういう宗教の教義を語るかという「表現」次元の問題と、どういう内発性ゆえに教義に帰依しているのかという「表出」次元の問題は、社会システム理論的には徹底して区別されなければならないということです。言い換えれば、「言語」の次元と、「動機づけ」の次元とは、峻別されなければならないんです。正確に言えば、「言語」ゆえに「動機づけ」がある場合と、むしろ逆に「動機づけ」ゆえに「言語」がある場合を、区別するべきなのです。
宮台真司『サイファ覚醒せよ!』 | p114
偏執症的批判活動は、証明不可能な理論的仮定のための証拠の捏造作業であるとともに、引き続きその証拠を世界に接木する作業でもある。その結果ひとつの「偽りの」事実が「本当の」事実のあいだに非合法に存在できるようになるのである。
レム・コールハース『錯乱のニューヨーク』 | p398
□memo□
これらが分離した近代において、「言葉」は選択可能である客体であるから、たまたまその「言葉」を用いただけである。それゆえ「動機づけ」が必ず内側に潜むわけではない。建築もそのことに自覚的になる必要がある。「プログラム」は選択可能である客体であるから、たまたまその「プログラム」を用いただけである。つまり、恣意的に選択される。「動機づけ」が必ず内側に潜むわけではない。徹底的に「プログラム」を客体化して編集してみせたのがレム・コールハースのダイアグラムであろう。プログラムと空間を、恣意的に選択して接合した。このあたりは、ソシュールのシニフィエとシニフィアンの議論が参考になるだろう。別の言い方をするならば、レム・コールハースは「表現」のみで建築をつくりあげた。「表現」とは「証拠の捏造作業」であるのだから。それはもちろん、「偏執症的批判活動」の肯定なしでは起きえない。これは、サルバドール・ダリやル・コルビジュエの文脈にのる。では「動機づけ」ゆえに生まれる「形式」とはなんなのだろうか。そんなものはあるのだろうか。宮台は「表現」によって人を動かしたり人を変えたりできる部分は、むしろごく僅かだという。ともすれば、レム・コールハースがしたのは「表現」にこだわり抜くことで「表出」にたどり着いたということなのか。そのこだわり抜いた情熱こそに本質があり、大きな熱狂を生むのか。熱狂を生むのは、レム・コールハースの「意味」ではなく「濃密さ」である。
「意味」に帰依するのでなく、「濃密さ」に帰依する。「真理」に帰依するのでなく、「聖性」に帰依する。「物語」に帰依するのでなく、「名状しがたいすごいもの」に帰依する。すなわち、「表現」によって動機づけられるのでなく、「表出」によって動機づけられる。
宮台真司『サイファ覚醒せよ!』 | p127
PC的活動は規範という堅固な背景があってこそインパクトを生むことができる。ロビン・フットの活躍が彼の森を通過する裕福な人々の絶えざる供給によって成り立っているのとまったく同じ理屈で、「現実世界の信用を完全に失墜させる」ためのあらゆる計画もまた、堅固な背景と健全な状況のものにある、またはあると思われる現実によって成り立つのである。
レム・コールハース『錯乱のニューヨーク』 | p431
□memo□
「濃密さ」を「濃密さ」たらしめるものこそが「偏執症的批判活動」ということだと思う。つまり「あらゆる事実、出来事、強制、観察は、病んだ精神によって単一の思考体系の中にからめ取られ」て「最初の出発点である妄想」を強化する形で繰り込まれてゆく。その病的な精神ことが「濃密さ」を生成する大きな渦巻なのである。つまり「証拠の捏造作業」という「表現」を繰り返すことで、「濃密さ」や「聖性」が生まれはじめ、「名状しがたいすごいもの」となる。『S,M,L,XL』という尋常じゃなく分厚い書物の存在がそれを証明している。このは現代建築の聖書である。レム・コールハースにおいて、「表現」と「表出」は逆立している。「動機づけのメカニズムに覚醒せよ!」と宮台はいう。つまり「表現」が優位になっているからこそ、「表出」の次元を忘却してはいけないし、少なくとも無知ではいけないというわけである。ただ、大きな情熱の渦巻こそが「濃密さ」を生むというのに、その「メカニズムに覚醒」したならば、大きな情熱の渦巻が小さな冷静な点になってしまわないかと危惧している。つまり「表出」次元を自身が生み出せるという可能性を忘れ、右往左往するだけの人が増えてしまうのはどうなのか。つくり手としてはそのあたりが気になる。別の言い方をするならば、全てを巻き込むことで「濃密さ」が生まれるのに、その「メカニズムに覚醒」してしまうことは「濃密さ」を放棄することにならないか。兎にも角にも、宮台がいうように「表現」が優位に立っている近代社会において、稚拙な態度をしていると絡めとられてしまうのは明らかであるので気をつけなくてはならない。そして「表出」の次元を無視してなならないし、そこに対して無知であるのはあまりに危険である。またレムがいうように、「表現」が優位に立っている近代社会という堅固な背景があるからこそ、「表出」のような企てが有効になるということも忘れてはならない。私は、建築において「体験(lived experience)」という概念を二項対立の往復運動の中に組み込もうとしているわけだが、「体験」というもので覚醒を促すことはできないだろうか。若者が本など読まない時代において、言葉にそこまで大きな力があるのだろうか。建築にできることが必ずあるはずだ。さて、議論は「世界」の輪郭についてを通過した後、「表出」に対する共感感覚の話へとスライドしてゆく。
しかし他方で、さっきから言っているように「物語への納得」よりも「すごいものへの感染」が優越しがちな共通感覚のあり方については、近代的自由の獲得と引き換えに近代が抑圧しがちな感受性を救済するという観点から、肯定的に評価したいと思っているわけです。三島由紀夫的に言えば、政治的表象としての天皇は否定するけれど、文化的表象としての天皇にはしかるべき意義を認めるということになります。
宮台真司『サイファ覚醒せよ!』 | p163
《四角いふうせん》が巨大なスケールでアトリウムの空間の形を、空模様を変えるように変化させていく。そのゆっくりとした動きは、雄大な景色のなかで眺めている雲のようなものだと思う。スピードを感じない、止まっているのか動いているのかそういうことを無意味にしていくような風景。アトリウムの空間に立つと、あるとき、雲を眺めるように、ぼんやりしてしまう。
石上純也『小さな図版のまとまりから建築について考えたこと』 | p44
□memo□
日本には、共通感覚という文化的な作法を持つ傾向があると宮台は指摘する。一方でアメリカ人は「物語に感動」する傾向があり、日本人は「すごいものに感染」する傾向がある。それゆえ、もののけ姫が海外ではまったく受けない。もののけ姫は物語としては不足しているのである。しかしながら、よく分からないが「すごいもの」であることは間違いない。そして、なぜか感染してしまう。建築においても「物語」優位であるのが、BIGの建築のダイアグラムであり、レム・コールハースの理論である。これらの建築は徹底して物語なのである。いやむしろ、物語しかない。しかし、あの分厚い本が描くように、それが明らかな「すごいもの」となりえるのは、偏執症なほどに「物語」を徹底したからだろう。つまり「物語」を徹底することで「すごいもの」が生まれる。一方で、石上純也の建築は「物語」というよりもある一瞬の「すごいもの」でしかないという意味においてジブリ的だ。つまり「すごいもの」であるが「物語」がない。そして、石上純也が海外で評価が高いのは、それが理解できないからである。その理解出来なさをまとめて「日本らしい」などと括るのは宗教と同じ図式であり、逆説的に「物語」を作りあげることだろう。別の言い方をするならば、キリスト教の文化圏の人々は、「物語」がないということに納得できないがために、「日本らしい」という「物語」を捏造しているのである。つまり「すごいもの」を徹底することで「物語」が生まれる。ところで、石上純也「四角いふうせん」がしたことは、宮台のいう「すごいものへの感染」という前提なしでは成立しなかったのではないか。『四角いふうせん』がなんらかの「物語」を持つとは到底思えない。もちろん、あとから「物語」として描くことはいくらでもできるのであるが。誤解しないで欲しいのだが、石上純也の建築は「すごい」だけである。つまり「すごくさえあれば、伝統なんてあってもなくてもいい」という感性が日本に残っていることを証明しているのではないか。他にもヴェネツィア・ビエンナーレに石上純也が提出した『Architecture as air』というただ細いだけの構造体も、「すごい」だけである。「すごい」ということに振り切って、そこを突き抜けて建築をつくりあげたのは、現代においては石上純也くらいであろう。その意味で彼はとても重要な建築家である。日本の建築が「日本らしい」といわれる所以だと思う。さて「すごいものに感染」する傾向というのは、今の日本人にどれくらい残されてるのだろうか。チームラボに感染する人々は果たしてバズに左右されているのか、それとも共通感覚なのか。議論は「サイファ」の話、この本の核心へと迫ってゆく。

04_レベルⅣ / 「サイファ」とは何か?

しかし「社会」の中に「たえず」未規定な「世界」が闖入するようでは、そもそも規定された物から成り立つ「社会」はあり得なくなります。そこで、「社会」の随所で露呈しうる「世界の未規定性」を、いわば一ヶ所に寄せ集めて、「世界」の中の特異点(特別な部分)として表徴する。この特異点を社会システム理論では「サイファ」(暗号)と言います。
宮台真司『サイファ覚醒せよ!』 | p180
フロイトがはるか以前に論じたように、そもそもアーティストとは社会のなかで自由な表現が許された唯一の存在であり、われわれが当たり前のこととして蒙る本能の断念の多くを免れている唯一の存在であるからだ。それゆえに、彼の自由な表現が意味するのはわれわれの不自由な抑制であり、つまり彼の自由とは、自由を定めるというよりも自由を代理=表象することが許された特権のことである。
ハル・フォスター『デザインと犯罪』 | p65
□memo□
本は核心へと近づき、サイファとは何かという最後の説明に入ってゆく。ゲーテルの不完全性定理で証明されたように、「論理的に無矛盾な記述で、世界の全体を覆う」ことはできない。この手の話は、柄谷行人の『隠喩としての建築』を見るとわかりやすい。そうして、内部では説明不能な外部が立ち現れた時に、それを「すごいもの」として認識するという構造がある。「世界の未規定性」が集約されるというのは、鮮やかな指摘である。先ほど説明した、海外では理解できない日本の建築を「日本らしい」として括るのは、未規定であるからだろう。こうした「世界の未規定性」は典型的には神や宗教というかたちで現れる。それは「アート」という形で現れる場合もあるだろう。「アーティストとは社会のなかで自由な表現が許された唯一の存在」であるというハル・フォスターの指摘を見るとわかるように、説明不能な外部をアーティストが背負うという場合もある。ハル・フォスターが『デザインと犯罪』の中で説明している上記の記述の「彼」とは、フランク・O・ゲーリーのことである。フランク・O・ゲーリーの建築が「排他的」であるかは置いといて、ゲーリーの建築に対する「例外的な認可」が街に大きな影響を及ぼすことは明らかだろう。「世界の未規定性」について思考することをせずに、そうした分からないものを「アーティスト」の自由幻想へと丸投げしている場合ではなく、自分ごととして捉えなければならない。そうでなければ、アートは、神や宗教というかたちに近づいてしまう。もし、アートがフランク・O・ゲーリーの建築のように美術館を飛び出したのなら、それは宗教建築と同じ役割を持つだろう。だからこそ「サイファ」についてひとりひとりが思考する必要がある。「サイファ」は暗号であり、ちゃんと読めるのに、何を指しているのかがわからない。そうし「サイファ」に対して、宮台は可能性として「第三の道」を説明してゆく。
一口でいえば、①突発的な「名状しがたい、すごいもの」への感染を手掛かりとして、②徹底的に論理的な思考によって各宗教ごとに固定されがちな「サイファ」を逆変換し、「世界の根源的な未規定性」に到達すること。③そのことによって、失われた「世界」との関わりを取り戻すと同時に、④「名状しがたい、すごいもの」への感染に対する理論的再解釈で、「名状しがたい、すごいもの」への感染を他者によるブレイン・ウォッシング(洗脳)やマインド・コントロールに利用されない防波堤を築くことです。
宮台真司『サイファ覚醒せよ!』 | p192
□memo□
興味深い意見であり、とても意義深いだろう。ただ、慎重に見なければならない。キリスト教のような「超越的な視線」がない日本文化において、その代わりになる可能性は「共通感覚」つまり「名状しがたい、すごいものへの感染」にあるのではないかということである。それは、桜という「すごいもの」が4月に咲くから、4月から年度が始まるような感覚であると。理論的には4月でも9月でも良いのだが、桜があるゆえに9月が年度の始まりであると気持ち悪い。今の若者たちは、この感性を本当に持っているのかは本の中で議論になるが、兎にも角にも「世界の根源的な未規定性」に通じる扉を開くことを大切にしようと伝えている。しかし、キリスト教のような文脈を持たない日本において「特異点」に圧縮されるようなものが生まれると危険であるという。そして、宮台は世界と僕たちの接点の体験について述べている。体験というものを徹底して思考するだけで、「世界の根源的な未規定性」へ辿り着くことができると。私は、世界と僕たちの接点にあるものが「体験(lived experience)」だろうと考えて建築を設計していたので、この本を読んでこんな見方ができるのかと驚いたのである。この部分がこの長文のメモを残そうと考えた理由である。ただ、異なる部分もある。彼は「意志」と「体験」について以下のように述べている。
僕たちは「意志」を「意志」しますよね。「これをしよう」とか、「これを書こう」とか、「こいつを攻撃しよう」とか。逆に言えば「意志」は「意志しない」こともできるわけです。でも、「感情」はそうではない。たとえば、憎しみ。「コイツを憎もう」と思って憎むわけではなくて、否応なしに憎しみが「訪れて」しまうでしょう。喜びも「訪れて」しまうし、悲しみも「訪れて」しまうのです。つまり「感情」は「行為」ではなく「体験」です。「感情」が「訪れる」のを「求めて待つ」という「行為」はありえますが、それは「体験」を待つという「行為」であるわけです。
宮台真司『サイファ覚醒せよ!』 | p203
もう一度言うと、"「感情」が「自分」を「訪れる」"という「体験」の意味を徹底的に考えるだけでも、「世界の根源的な未規定性」へと開かれることができるというわけです。解読次第では、そういう扉でありえるという意味で、自分もまた「サイファ」です。
宮台真司『サイファ覚醒せよ!』 | p205
生きるということは形而上的な意味までを含めた総体的なまとまりであって、単に生物学的な営みをさすのでないことはいうまでもない。
多木浩二『視線とテクスト』 | p106
つまり、感情という外側から「訪れて」くるものが「体験」ならば、その意味を「徹底的に論理的な思考」によって考えるだけでも「世界の根源的な未規定性」へと辿りづくというわけである。その意味において、ひとりひとりが「サイファ」であるともいえる。宮台はこうしたメッセージを残している。ただいくら伝えたところで、現代を生きる若者が「徹底的に論理的な思考」を駆使することができるとも思えないというのが、私の本音であり実感である。だからこそ、宮台はこうした力強い文章で、僕たちを動機づけようとしている。しかし、感情が外側から「訪れて」くるという「体験」すらも、すぐに消費されてしまうように思えてならない。そこで建築が役に立つと思う。もちろん、石上純也のような極度に抽象化されたものは「すごいもの」として認識されるだろうが、それに対して「徹底的に論理的な思考」を行う人がそもそもいないだろう。ピラミッドやパルテノン神殿ですらも消費されてゆくのだから。つまり「すごいもの」は客体として消費されてしまう可能性が高い。そこで、私のいう「体験(lived experience)」はより主体の意志に寄り添い、それが膨らませた建築をつくることで、「世界の根源的な未規定性」を自覚するきっかけをつくるというものである。外側から「訪れて」くるきっかけを、主体とかなり近いところに引き寄せることが建築にできると思う。結局はひとりひとりが自分の意志で「サイファ」を模索しなければならない。「サイファ」を極度に抽象化された客体として建築にしても意味がない。建築というのは、否応なしに身体と近い距離にあるからこそ大きな可能性がある。そしてその鍵となるのが「体験(lived experience)」なのではないかと常々考えている。ただ、ここには危険がある。宮台がいうように「予め規定されたもの」を「世界の根源的な未規定性」として提示するやり方では、「オカルト」や「神秘主義」や危険ものを体現してしまう可能性がある。そこに私は「体験(lived experience)」の建築の危険性を敏感に感じ取り、頭を抱えているのである。それは「LSDのようなドラック」や「電極によるパルスの打ち込み」のような体験ではあってはならない。そうした衝撃を与えるだけの建築は、とても危険である。名前は伏せるが、そうした建築を作ろうとする建築家も多かったのではなかろうか。「サイファ」は自分で探して、相対化されるもののはずである。それを、かたちとして簡単に押し付けてはならない。そのために、謙虚かつ禁欲的に、そして論理的に語る必要がある。ひとりひとりが「体験(lived experience)」を通じて世界を取り戻すことを、建築家として考えてゆきたい。それは世界に没入することではなく、戻ってくる可能性も視野に入れて設計しなければならないという意味である。

05_レベルⅤ / 「サイファ」として生きる

「世界の根源的な未規定性」に関わる振る舞い ﹣それを覆い隠したり解決しようとする振舞い﹣ は、人類の歴史とともに長く長く続いてきました。それは多くの場合「宗教」という形をとり、ごく最近になって、特別な地域の特別な宗教的伝統の延長線上に花開いた「科学」という形をとるようになりました。その結果、僕たちは「問題を解決する」ことはできず、「問題設定を理解する」ことしかできないことが明らかになってきました。しかし、それでいいのだ、というのが僕たちの主張であるわけです。なぜならば、「世界の根元的な未規定性」に関わる長きにわたる人類の営みが含意している問題設定を理解するという行為 ﹣言い換えれば「サイファ」を逆変換して相対化する行為﹣ は、それ自体が、僕たちの感覚を、「世界の根元的な未規定性」すなわち「名状しがたい、すごいもの」へ開いてくれ、「世界」を豊かに体験させてくれるからです。そこで得られる豊かさは、特定の「サイファ」を推奨するゆえに排除的となる「異端狩り」を必要としません。その意味で「共生原理」と両立する「世界」豊穣化に向けた戦略なのです。
宮台真司『サイファ覚醒せよ!』 | p259
この本はこう締められる。宮台真司の主張は一貫していて、強く鮮やかである。あまり触れられない問題に、正面から立ち向かう態度はもちろん、とても大事な問題提起が知識的な裏付けをもとに、強く優しく語られている。私たちは、このことを慎重に捉えて、自分の頭で考えなければならないだろう。一般の方も、建築に関わっている方も、この程度の知識がなければ話にならない。ぜひ一読することを強くおすすめしたい。
山地大樹 / Daiki Yamaji
memo / 2021
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宮台真司・速水由紀子『サイファ覚醒せよ!』
01  宮台真司・速水由紀子『サイファ覚醒せよ!』#1
まえがき /  レベルⅠ (「社会の底が抜けている」ことに気づけ) /  レベルⅡ (「第四の帰属」がなぜ必要なのか?)
02  宮台真司・速水由紀子『サイファ覚醒せよ!』#2
レベルⅢ (自分自身の「聖なるもの」は何か、に覚醒せよ) /  レベルⅣ (「サイファ」とは何か?) /  レベルⅤ (「サイファ」として生きる)
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