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レム・コールハース『錯乱のニューヨーク』#1

文章 山地大樹
錯乱のニューヨークの表紙画像
レム・コールハース『錯乱のニューヨーク』の読書メモです。街を散歩して美しい花を見つけるように、本を読んで心を惹かれる断片を集めています。体系的なものではありませんから、あしからず。

01_序章

マンハッタンの問題はその逆である。ここには、マニュフェストはなく、明白な具体例が山ほどある。本書は、こうした互いに異なる状況が交差するところで着想された。これはいわばマンハッタンのための〈回顧的なマニュフェスト〉の書なのである
レム・コールハース『錯乱のニューヨーク』 | p009
私はまた、実在する国のどんな些細な現実にしと再現したり分析したりしようとはせずに(その逆こそが西欧的な陳述の企図するところなのだが)、この世のなかのどこかしら(かなた)の、幾つかの特徴線(この製図法的にして、かつ言語学的な言葉よ)を抜きとって、この特徴線で一つの世界をはっきりと形成することができる。日本、と私が勝手に名づけるのは、そういう世界である。
ロラン・バルト『表徴の帝国』 | p011
□memo□
かの有名な『錯乱のニューヨーク』を読んでゆこうと思う。オランダ人の建築家であるレム・コールハースが1978年に描いたこの本は伝説のはじまりであり、建築家への挑発である。無名の存在であったレム・コールハースは、この本に背中を押されて現在の地位まで上りつめさせた。別の言い方をするならば、レム・コールハースが有名になる未来は、この本によって予言されていた。さて、序章において述べられているのは『錯乱のニューヨーク』の位置付けである。この本は「回顧的なマニュフェスト」である。マンハッタンという現実に存在する都市が「マンハッタニズム」という理論の産物として生まれたと仮定し、そのプログラムを「遡及的に定式化」することをを目的としている。本自体の構成も「マンハッタングリッド」という都市理論とアナロジカルにつくられ、独立した章立ての並列される。忘れてしまいそうになるのだが、そうした章のタイトルや中身ですら、レムによって丁寧につくり込まれている。マニュフェストという空虚なものをつくらず、現実を理解しなおすことでマニュフェストを捏造する。レムが用意するのは曖昧で鋭い補助線のみであり、マニュフェスト捏造すらも読者の読むという体験によって行われる。変様する穴のあいたマニュフェスト。マニュフェストは強い渦巻きとなり、親近性のある事柄をすべて巻き込みながら、すくすくと育ってゆく。ベンヤミンの『パサージュ論』のように、断片は編集によって神話を生み出す。レム・コールハースがした偉大な業績は、むせかえる程に膨大な情報を持つニューヨークを、小さな断片の章へと明快に解体し、大胆な編集と知性の横断によって統一を示唆することで、変様体としてのマニュフェストを誕生させたことにある。私たちは、この本を読みながら「マニュフェスト」を捏造する共犯者となる。ロラン・バルトのいう日本というのがこれに近いだろう。ロラン・バルトが『表徴の帝国』においてつくりあげようとした日本とは、日本という「思いもよらぬ象徴世界の存在をかいま見せてくれる特徴線の貯蔵庫」へ飛び込んだロラン・バルトが、その「特徴線」でつくりあげた世界である。こうした世界をつくりあげるやり方は、外側にいる人間が、暴力的かつ無責任におこなうからこそ成立するものである。それは分析ではなく、解釈である。それは世界ではなく、世界観である。

02_前史

四年後彼らは ﹣つまり市の開発部分と未開発部分の線引き決定をおこなうより先に﹣ 南北に走る十二本のアベニュー〔街〕と東西に走る百五本のストリート〔丁目〕を作ることを提案する。こうした簡単な操作で、彼らは市内を一三×一五六=二〇二八個のブロックに分割してしまう。(地形上の偶発的要素はここから除かれる)。このマトリックスは同時に残りの地域と島の将来の活動をともに絡めとってしまう。これがマンハッタンのグリッドである。
レム・コールハース『錯乱のニューヨーク』 | p026
つまり思想家には多量の知識が材料として必要でり、そのため読書量も多量でなければならない。だがその精神ははなはだ強力で、そのすべてを消化し、同化して自分の思想体系に併合することができる。つまりその精神はたえず視界を拡大しながらも有機的な組織を失わない壮大な洞察力の支配下に、その材料をおくことができるのである。
ショウペンハウエル『読書について』 | p012
□memo□
レム・コールハースは、マンハッタンのはじまりはブロックの分割作業にあり、これを西洋文明における最も果敢な予言行為であるという。「グリッド」がそこにある限り、そこに何を置いても「グリッドに置かれたもの」として記述されてしまう。つまり、住所を割り当てられてしまう。「ブロック」がそこにある限り、そこに何を置いても「ブロックの中にあるもの」として記述されてしまう。つまり、枠組みを割り当てられてしまう。グリッドの中立性は見せかけであり、全てを包み込む知的概念が実際の敷地の中に、鮮やかにそして具体的に立ち現れた。グリッドというシステムが、自然という野生を完全に征服したと同時に、人間の理性すらも征服してしまう。絵画がキャンバスを飛び出せないように、美術が美術館を飛び出せないように、建築は敷地を飛び出せない。そして、その敷地の枠組みが予め決定されているというアイロニー。地上350フィートの高さのラッティング展望台ができたとき、マンハッタンの住民は都市を上から見て、グリッドを頭の中の地図に仕舞い込んだ。ロランバルトが『エッフェル塔』でパノラマ的視点と述べたことに近い。レムの独自性はそのパノラマ的視点が、野心を強化させる方向にしか進まないと言い切ったことにある。ロランバルトの場合、俯瞰的な視点を手に入れて街を眺めるだけではなく、俯瞰的視点を利用して現実を弁証法的に変様させてゆくことを「知性」と呼んでいる。一方でレムの考え方は、二項の弁証法のようなものではなく、すべてを巻き込んでゆく渦巻きなのである。私たちは、レムの考え方に吸い込まれてゆく、何かにしがみついて抵抗しないかぎりにおいて。つまり、知性なき私たちは「グリッド」の中で生きるしかない。「グリッド」の中に溺れるしかないのである。レムがしたことは、マニュフェストをつくり上げるのではなく、現実をマニュフェストへと引きずり込んだのである。それゆえに、もう逃れられない。だからこそ、恐ろしい。私たちは、このレムの主張に「馬鹿にしないでくれ!何がグリッドだ!そんなものに縛られてたまるか!」と声をあげるべきである。しかし、あろうことか「レムはすごい!」と盲目的に従うのである。私たちには、もう知性など残されていないのか。ショウペンハウエルが『読書について』で述べる「生涯を思索に費やした人」や、シャルル・ボードレールが『現代生活の画家』で述べる「詩人」などという、世界を消化しながら「自分の思想体系に併合」するタイプの人間像や精神が「グリッド」に置き換わったという見方ができるだろう。意志の強さや自我ではなく「グリッド」こそがすべてだろうと言い切ることにレムの鮮やかさがある。建築でいうならば、原広司が『空間〈機能から様相へ〉』の中で述べた均質空間や、ル・コルビジュエの「ピュリズム」という絵画形式が「グリッド」に置き換わったという見方もできる。もちろんスーパースタジオの建築もこれに近い。つまり、現実世界をすべてを絡めとってしまう、一つ上の次元の回路を生み出す思想なのである。ただレムの恐ろしいところは、理論が現実とひどく密接しているがゆえに否定できないことにある。むしろ、現実を理論化しているゆえに反証できない。理論を現実化しようとすると反発があるが、現実を理論化してしまったのだから反論のしようがない。最も危険な嘘というのは、真実の断片が混ざっている嘘である。すべてを絡めとってしまう「強さ」ゆえに、私たちが思考停止状態へと導かれてしまうことは、あまりに危険である。つまり「グリッド」が秩序を保証しているから、何をしても良いと考えるのは宗教と同じである。そうした「強さ」こそがマニュフェストへ盲目的に従属する人を生み出したり、マニュフェストについてゆけないと諦念する人を生み出してしまう。このあたりの話は、宮台真司の『サイファ覚醒せよ!』(memo0001)に詳しい。私たちは、すべてを絡めとってしまう「強さ」が提示されると、別の可能性をすぐに忘れてしまう。別の可能性とはそうした「強さ」というのは、システムや意志に頼らずとも、ひとりひとりがつくりだせるという可能性である。そのためには、何かきっかけさえあれば良い。私が「体験(lived experience)」を考える理由はそこにある。「強さ」へと墜落しない形式として「体験」を思索しているのである。 マンハッタンの航空写真
fig. Manhattan | image via flickr.com | © Marcela

03_第Ⅰ部 コニーアイランド / 空想世界のテクノロジー

十九世紀と二十世紀の合流点に登場するコニーアイランドは、マンハッタンの胎動期のテーマと幼児期の神話の孵化装置なのである。のちのマンハッタンを形成する戦略と機構は、まずコニーアイランドという実験室でテストされたのち、最終的により大きな島に適用される。コニーアイランドはマンハッタンの胎児である。
レム・コールハース『錯乱のニューヨーク』 | p046
人工的快楽の記録が、最も自然的な快楽の最も普通な源泉であるところの女性に捧げられるといふことは、凡俗な精神には異様に、かつ顰蹙すべきことにさへ見えるだらう。しかし自然界が精神界に滲透してその糧となり、かくしてわれらがわれらの個性と呼ぶ、この名状しがたい合金を造るに協力する際に於て、われらの夢の中に最も大きな影を、もしくは、最も大きな光を投げるものが女であることは明かなことである。
シャルル・ボードレール『人工天国』 | text via 青空文庫
□memo□
第Ⅰ部の「コニーアイランド-空想世界のテクノロジー」からみてゆくことにしよう。第Ⅰ部は1950年のコニーアイランドの記述からはじまる。1609年にハドソンによって発見された土地は、1823年に橋がかけられて、マンハッタンのリゾート地として生誕する。「文明化されたアルカディア」であるこの土地は「最も近隣の自然の処女地」である。この土地の処女性というのが、文化の発展には欠かせない。水晶宮が植物を育てるためだけの、単なる温室に文化を接続したことによって、ひとつのユートピアへと変貌を遂げたように。文化というのは、処女という白紙と合体することによって、初めて躍動ある生命を生み出す。意味がこびりついた土地には、文化を接続する動機を見出せない。人間は、真っ白なキャンバスを見つけると、自分の色の絵具で染め上げたくなる衝動が本能的に備わっている。少し補足するならば、現代の処女地は情報空間の中にある。無限の空間を持つ情報空間は、テクノロジーによって生み出された更地であった。インターネット上にひろがる地平は、驚くほどのはやさで染め上げられ、汚れてしまった。それは薄黒い汚れではなく、カラフルという悪意のない汚れである。コニーアイランドの議論は現代の情報空間につながる。そうした埋め尽くされたカラフルな情報空間は、グーグルの「検索窓」という不在によってついに覆い隠された。「検索窓」は単なる窓であり意味を持たないが、別世界への入り口として機能する。ここ最近に設計された窓の中で一番美しいのはグーグルの「検索窓」である。後ほど述べるが、グーグルの「検索窓」が情報空間したことは、ニューヨークの超高層の「エレベーター」が建築空間にしたことと全く同じである。インターネットとの関連において『錯乱のニューヨーク』という書物は、まだ大きな射程を持っている。私たちは、新たな処女地を求めてしまうのだから。この本の中で舞台となる遊園地は3つ。ジョージ・テイリューの「スティープルチェイスパーク」、フレデリック・トンプソンの「ルナ・パーク」、ウィリアム・H・レイノルズの「ドリームランド」であり、その変遷が見事に描かれてゆく。かつて荒野であったこの土地は、次第に様々な色へと塗られ、そのカラフルさで勝負してゆく事になる。カラフルさ、すなわち人工的快楽であり、夢のように色鮮やかな遊具が饒舌に描かれる。しかしながら、カラフルさというのは、やがてくたびれる。カラフルさは、一時的であるからこそ美しい。私たちはもう子供ではなく、大人であるのだから。人工的快楽に綻びが生じると、自然的な快楽を求めて新しい処女地を熱望する。カラフルという麻薬のような超自然的状態が望むのは、アルカイックな自然的状態である。酔いしれながらも追い求められるのは、鮮やかな素面な世界である。その様子を美しく描いたのが、ウディ・アレンによる『女と男の観覧車』という映画である。良い映画なので『錯乱のニューヨーク』を読みながら見て欲しい。この映画に描かれる放火癖のある少年こそが「コニーアイランド」を読み解く鍵になるだろう。ネタバレはここではよそう。さて、遊園地そのものには火が燃え広がってしまい、遊園地は白紙化される。火事である。そして1957年には「ニューヨーク水族館」というモダンな建築が建てられる。この水族館は「モダニズム的復讐」であるというレムの指摘も興味深い。勝手ながら、この章に個人的に補助線を付け足すならば、処女地を求める欲望と、処女地を汚したい欲望のせめぎ合いという補助線である。前者が清白にみえるだろうか。ただ、そうではない。外側からみると反対の欲望であるが、内側がらみると同一の欲望である。つまり、汚すために処女地をつくり出したいのである。自分が自らの手で汚すためだけに。その意味で、どちらも同じ素直な欲望なのである。
fig. 女と男の観覧車 | ウディ・アレン | 2018 | movie via youtube.com

04_第Ⅱ部 ユートピアの二重の生活 / 摩天楼

タワーは敷地の上方拡大に意義を与え、敷地の上方拡大は、グランド・フロア・レベルにおけるメタファーの展開を助け、ブロックの征服は、自分の島をひとり占めする占有者としてのタワーの孤立を保証する。真の摩天楼は、この三つの要素の複合の産物である。
レム・コールハース『錯乱のニューヨーク』 | p163
むかしスパルタが隆盛をきわめたのは、その法律の一つ一つが良かったためではない。というのは、ひどく奇妙な法律や、良俗に反する法律さえも多かったからだ。そうではなく、それらの法律がただ一人によって創案され、そのすべてが同一の目的に向かっていたからである。
デカルト『方法序説(岩波文庫,谷川多佳子訳)』 | p21
□memo□
第Ⅱ部の「ユートピアの二重の生活-摩天楼」を見てゆこう。ここではマンハッタンの摩天楼が生まれてゆく過程が描かれる。その摩天楼を生み出したのは、①世界の再創造、②タワーの付加、③ブロックまるごと、の3つの発明である。こうして、発明をわざと断片にちぎり、読者に読みながら統一させ、読者を本の中に引きずりこむのがレムの常套手段である。①世界の再創造とは、エレベーターを用いて処女地を上へと拡大してゆき、建物がもはやひとつの世界となるほどにまで積み上げること。②タワーの付加とは、ビルディングの上にタワーを乗せることで、タワーが蓄積してきた象徴性をくっつけること。③ブロックまるごととは、ひとつのブロックが構想の限界領域であり、孤立して存在するということ。そしてこの3つが組み合わさることで「真の摩天楼」となる。「真の摩天楼」はグリッドというただ一つの暴力的な秩序によって、同一な目的へと暴走してゆく、首輪の外れた獣である。それは本に近い。本というのはその形式の中で、いくらでもページ数を増やして厚みを出すことができる。すなわち、新しい処女地を無限に作り出せる万能なシステムである。本の表面にはタイトルが描かれイラストレーターが描いた綺麗な絵が付加される。最後に、本は本という枠組みを飛び出すことなく本屋に並べられる。ともすれば、ページ数を極限まで増やし、表紙に派手な装飾をつけ、となりの本をのり超えてゆくしかない。その時、本そのものがモニュメントたりうる。そうして生まれたのが『S,M,L,XL』だろう。この本はもはや、モニュメントでしかなく、本屋におかれた摩天楼さながらである。本屋に迎合した本ほどつまらないものはない。本屋とは個性的な本の集合によって強化されてゆく総体なのである。
容れものと内容の間の故意の断絶のなかに、ニューヨークの建設者たちは未曾有の自由の領域を見出す。彼らはこれを活用し形態化することにあたって、建築的なロボトミーを実行する。﹣ つまり、前頭葉と脳の残りの部分のつながりを外科的に切除し、感情と思考過程の分離によって何らかの精神の混乱を引き起こそうとするのである。この建築的ロボトミーは外部と内部の建築を分離する。
レム・コールハース『錯乱のニューヨーク』 | p168
一たびこういう虚妄の快楽に取り憑かれてしまうと、人間はもう快楽に対する正しい認識が持てなくなり、したがって正しい自然な快感を感じる力を失ってしまうからである。じっさい、世の中には、本来は少しの快さというものを持たないのに、というより、本当は苦しみと悲しみにみちているのに、放埒無残な情欲のよこしまな誘惑に災いされて、かえって絶対無上の快楽、いや、人生の至上目的とさえ考えられるものが多いのだ。
トマス・モア『ユートピア』 | p114
□memo□
建築的ロボトミーによって、外部と内部の建築を分離する。ロバート・ヴェンチューリが『ラスベガス』において「あひる」と「装飾された小屋」という分類をしたこと思い出す人も多いだろう。ヴェンチューリは、象徴という装飾が一体化した建築よりも、象徴という装飾を適切に外側に貼り付ける方を推す。しかし、建築的ロボトミーが行われたマンハッタンでは、囲いこまれた内部においても「マレイのローマ庭園」のような別のユートピアが実現されてゆく。分離された内部も、分離された外部も、欲望に沿ってと自動的に走り出すのである。思い出すのはインターネットの「表層Web」と「深層Web」というものである。これも、ロボトミーが行われている。前者は通常の検索エンジンが収集可能なものであり、後者は通常の検索エンジンでは登録できないものである。「表層Web」は検索窓から覗き込めるが、「深層Web」は検索窓から覗きこめない。それだけではない。インターネットには「ダークウェブ」というその下の階層がある。「ダークウェブ」は専用のソフトウェアを使わないと入り込めない領域であり「Tor」という暗号化技術が使用される。それは往々にして犯罪の温床になる。ダークウェブで力を得るのは、国家でも大企業でもなくプログラミング・コードと暗号化技術で武装した個人である。ロボトミーされた分裂の深く下には欲望に渦巻く、無意識な空間が潜んでいる。マンハッタンでいうならばそれは地下であろう。マンハッタンの地下に眠っているものは、ディエゴ・リベラの『凍結資産』(p369)を見ると推測できる。武装した個人が立っている。別の可能性としては、地下鉄が走りまわっているのだ(p469)。ところで本の内容は、1916年に制定されたゾーニング法へと飛び「ハウス」と「ヴィレッジ」というかたちの話へと飛ぶ。そして、ヒュー・フェリスという画家は、高さの規制によって生まれる建物の外皮を独特なタッチで描き続ける。アーチェリーにおいて的の中心に矢が刺さることをイメージして矢を射るように、その外皮という既に決定された完成形に向けて建物は設計されてゆく。さらに、ハーヴィ・ワイリー・コーベットの全表面を道路にし、自動車の海が眼下を覆うという狂気の計画が紹介される。いずれにせよ、こんなに計画が描かれると、もう成長するしかないだろう。規制は既に内在化されていて、ブレーキの無くなった車のように、止められない。アクセルを踏み続けるしかない、未来に向かって。車のエンジンは過密そのものである。それを「過密の文化」とレムは呼ぶ。「過密の文化」では「最先端の伝統」を求めて「破壊」が繰り返される。「破壊は保存の別名」なのだから。
エンパイア・ステートは一種の自動建築と言ってよい。それは会計士から配管工に至るまでの作り手たちが集団的に、建設というプロセスに官能的に身を任せる行為である。エンパイア・ステートは、金銭上の抽象物を具体化する﹣ 要するに存在する ﹣こと以外のプログラムを持たない建物である。この建設に関わるすべてのエピソードは自動的行為という疑問の余地のない法則によって支配されている。
レム・コールハース『錯乱のニューヨーク』 | p234
エッフェル塔以外のすべての記念碑が、なんらかの使用目的を持っていたのに対して、エッフェル塔だけは観光の対象以外のなにものでもなかった。この塔の空虚さそのものが、この塔を象徴に指名したのである。
ロラン・バルト『エッフェル塔』 | p084
□memo□
エンパイア・ステートは自動建築である。規定された外皮の中で、階数とスペースを最大限に埋め込んでゆく作業である。その意味で、完成されたイメージに向かって、もう自動的に走り出すしかない。やはり『錯乱のニューヨーク』を読んでいると、ロラン・バルト『エッフェル塔』を思い出すことが多い。ロラン・バルトのテクストにおける「空虚」をレム・コールハースは「過密」というものに言い換えたように思えてくる。そう考えると、この本は一気に読みやすくなる。骨組みの構造体であるエッフェル塔に、外皮を貼り付けたのが摩天楼である。外皮が貼り付けられることにより「建築的ロボトミー」が実行される。すると、囲われた空虚が生まれる。囲われた空虚というのは不気味であるから、とにかく何かで埋めなければ気が済まない。『グラン・パレ(コングレクスポ)』というプロジェクトで描かれた、エッフェル塔を包み込んだ楕円形の平面のドローイングがそれを証明している。パリで「意味作用の解体」が行われている時、ニューヨークでは「意味作用の充填」が行われていた。前者と後者は異なるように見えるが、共通点がある。それは、止められない不安である。巣からでてゆく働きアリのように、せっせと意味を運び出して、せっせと意味を運び込む。零度をめざして。「充填」されたものは「解体」しなければ不安であり「解体」されたものは「充填」しなければ不安である。「意味作用の解体」も「意味作用の充填」が気が付くと内在化されてしまう。つまり、作業をしていないことの方が不安に感じる。泳ぎ続けなければと酸欠状態で死んでしまうマグロのように、作業をやり続けなければ死んでしまう。たとえば「意味作用の充填」が達成されると、それを「破壊」してまたせっせと「意味作用の充填」にとりかかる。悪魔に取り憑かれたように。原動力は不安である。そうした不安から逃れるためにレム・コールハースは「ヴォイドの戦略」を打ち出し、『フランス国立図書館』『カーサ・ダ・ムジカ』へと続いてゆく話はまた別の機会にすることにしよう。さて、マーク・フォスター・ゲージの『ヘルシンキ・グッゲンハイム美術館』などは「意味作用の充填」の文脈にある。オブジェクト思考存在論よりもマンハッタニズムの延長として考えるのが妥当だろう。さて、そうした行き過ぎた「意味作用の充填」は、ある枠組みの中で行われる限りにおいて、新しい世界を我々に見せてくれる。それは衝突である。
ホテルそのものがプロットである。﹣ それは、ほかの場所では絶対に出会うことのない人間同士の間にでたらめで好運な衝突を発生させる独自の法則を備えたサイバネティックな宇宙である。
レム・コールハース『錯乱のニューヨーク』 | p252
たとえばダダは偶然性の導入を好んだが、より正確にいえば全体を一望できる(そして統制するような)視点を拒否したのである。全体が見渡せず(全体との関係を見ることも、考えることもなく)、つまり自分がやっていることがどのように全体から見える考えずに、そのとき個々がいる場面での個々の行為にだけ賭け没頭する。全体との関係は保証されず切断されているとき、個々の行為は偶然的、恣意的に見えるだろう。(中略)しかしながら職人もダンサーもこうした全体を見渡す観察者の視点を持たずとも、それ以上に確実に自分たちのやっていることを把握している(ゆえに制作はできる)。視覚によらず把握しているのである。(中略)重要なのは職人にしろ、ダンサーにしろ、その必然をまさに自らの身体の必然、行為の道理として極めて具体的に確信している、把握している、ということである。
岡崎乾二郎『抽象の力』 | p234
□memo□
ニューヨークにおいて「マンハッタングリッド」というシステムが、ブロックという領域を規定しているからこそ「意味作用の充填」作業がブロックという領域を飛び出すことはない。各々がブロックという領域の中で好き勝手するのである。建築の内部も同様である。各階が無関係なプログラムとして重ねられているゆえに、各階を飛び出して「意味作用の充填」が行われることはない。その結果「好運な衝突」が起こる。それはもちろん偶然である。レム・コールハースの『ラ・ヴィレット公園』のコンペ案では、高層ビルが水平に倒されたような平面であり、水平ストライプ状の帯は境界面において偶然の出会いという衝突を生む。岡崎乾二郎は『抽象の力』において、ダダを「全体を一望できる視点を拒否」した芸術であることを取り上げて、職人やダンサーと比較している。決定的な違いは、職人やダンサーは全体を一望できる視点を持たないのにも関わらず、「自らの身体の必然、行為の道理として極めて具体的に確信」することによって全体を把握しているということである。つまり「全体を一望」することなしの調和は、視覚によらない「確信」によっても可能である。東京いう街は、岡崎乾二郎のいうような調和がどこかに潜んでいるように思う。東京は踊っている。踊りを通して、変化しゆくある全体へと近づいているのだ。鉄道の踊り、スクランブル交差点での踊り、下町で飲み歩く男の踊り。そこには「体験」を通した「確信」があるように思えてならない。東京都はそういう街だ。それゆえ激しい衝突は少ない。さて、「マンハッタングリッド」という視覚的なシステムで完全に制御しているのがニューヨークの面白さであり、奇妙さなのである。ニューヨークには「体験」がない。あるのはグリッドだけである。だからこそ衝突が絶えない。『セックス・アンド・ザ・シティ』も『ゴシップガール』も『GIRLS/ガールズ』もそこにあるのは、これといった大きな物語があるのではなく、話数によって区切られた小さく身勝手な物語だけである。その、小さな物語は話数という領域によって区切られたバラバラな物語は、衝突を繰り返して強化されてゆく。 エンパイアステートビルの写真
fig. Empire State Building | image via unsplash.com(modified)

コラム_錯乱のニューヨークの表紙 / マデロン・ヴリーゼントープの絵画

fig. Flagrant Delit | ヴリーゼントープ | 1975 | movie via youtube.com
□memo□
錯乱のニューヨークに描かれた表紙のイラストが気になる方も多いと思う。二人の建物たちベットに横たわる。エンパイア・ステート・ビルとクライスラー・ビルである。ちくま学芸文庫版は秀逸であり、表紙をめくることで「現行犯」されている状況が明らかとなる。この二人を発見してしまうのは、RCAビルである。窓の外側には、立ち並ぶ摩天楼が無数の顔となる。これはルネ・マグリットによる『葡萄の収穫月』が参考にされている。表紙の画像を描いたのはマデロン・ヴリーゼントープという人物である。表紙は『The New York Series』というものである。このリンクは彼女のホームページへと飛ぶので、ぜひ見て欲しい。やはりこの絵画で面白いのは、建物が擬人化されていることである。人間というのは、どんなに外側で覆い隠そうが、欲望を内に秘めている生き物である。ベッドの端には使用済みのゴムが描かれ、よく見ると「GOOD YEAR」と描かれている。これはグッドイヤー飛行船を表しているのだろう。情報ソースが不確かな記事で申し訳ないが、この記事によると、上記の映像はヴリーゼントープがフランスのテレビで制作した映像であるとのこと。それにしても面白い映像作品である。もしお詳しい方がいたらお教えください。さて、次の章へと進んでゆこう。
山地大樹 / Daiki Yamaji
memo / 2021
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レム・コールハース『錯乱のニューヨーク』
01  レム・コールハース『錯乱のニューヨーク』#1
序章 /  前史 /  第Ⅰ部 コニーアイランド (空想世界のテクノロジー) /  第Ⅱ部 ユートピアの二重の生活 (摩天楼) / 錯乱のニューヨークの表紙(マデロン・ヴリーゼントープの絵画)
02  レム・コールハース『錯乱のニューヨーク』#2
第Ⅲ部 完璧さはどこまで完璧でありうるのか (ロックフェラー・センターの想像) /  第Ⅳ部 用心シロ!ダリとル・コルビジュエがニューヨークを征服する (ロックフェラー・センターの想像) /  第Ⅴ部 死シテノチ (ポストモルテム) /  補遺 (虚構としての結論)
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