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レム・コールハース『錯乱のニューヨーク』#2

文章 山地大樹
錯乱のニューヨークの表紙画像
レム・コールハース『錯乱のニューヨーク』の読書メモです。街を散歩して美しい花を見つけるように、本を読んで心を惹かれる断片を集めています。体系的なものではありませんから、あしからず。はじめから読みたい方はこちらへ移動してください。

05_第Ⅲ部 完璧さはどこまで完璧でありうるのか / ロックフェラー・センターの想像

過密を増大させることによって過密の解消を図ろうという逆説的方法の中には、「過密障壁」なるものが存在するという理論的前提がみてとれる。言い換えるなら、巨大建築という新たな秩序を思考することによってこの障壁を打ち破れば、突如として完全に清朗にして静粛な世界が訪れることだろう。そしてそうなれば、すべての活動はビルそれ自体の中で完全に解消されるだろう。過密は街路から取り除かれたのち、建物に吸収されるだろう。
レム・コールハース『錯乱のニューヨーク』 | p298
近い未来における「絶滅」という決定的な切断線。このダークなシンギュラリティのビジョンを共有するシリコンバレー界隈の億万長者は少なくない。ペイパル・マフィア(ペイパルの創業期に関わったマンバーを指す)の一人イーロンマスク(Elon Musk)は、スペースXの設立を通して民間の宇宙船開発を推し進めているが、その目的のひとつは地球からの「イグジット」に他ならない。
木澤佐登志『ニック・ランドと新反動主義』 | p54
□memo□
第Ⅲ部のはじまりはレイモンド・フットの紹介からはじまる。彼の逸話が幾つか並ぶが「未来のマンハッタンはタワー都市になる」という構想が重要である。黒煉瓦で覆われた『アメリカン・ラジエーター・ビル』、ロビーに球体を持つ『デイリーニュース社』『マグロウヒル』の設計をする。その後、1931年に『ひとつ屋根の下の都市』と『マンハッタン1950』という理論的プロジェクトを描く。暴走を加速させることによって、暴走を止める。暴走を止めるという口実のもと、暴走が加速してゆく。過密というのは、過密の姿である巨大建築によってのみ制御可能であると。この考え方が危険なのは、そこには「未来」しかないことである。想定された「未来」があり、「今」を未来へ近づけてゆく。そこには「今」がない。忘れてはならないのは、「未来」は「今」に含まれ、「今」は「未来」に含まれるということである。「未来」と「今」はメロディのように繋がっている。その隙間にあるのが「体験」である。「未来」は単なる客体ではない。ところで、舞台はロックフェラーセンターへと移動し、ロックフェラーセンターができるまでの軌跡が「考古学」の様相で描かれる。解説はしないが、ひとつひとつの図版の全てが面白い。印象的なのはその後の「ラジオシティ・ミュージックホール」の章である。ロキシーというショービジネスのプロがつくりあげた劇場は、人工天国とでも言えよう。人工的に、昼と夜という時間つくり出され、暑さと寒さという環境がつくりだされ、笑気ガスという薬によって「人工楽園」がつくられる。ADHD薬のアデロールが処方された子供は「過集中」の状態に陥ると聞いたことがある。処方とは加速なのか。現象学的な現実空間とでもいうべき夢の器が誕生した。夢の器で行われるのは、ロケッツたちの足上げという運動であり、そこには筋書きはいらない。内容や物語があるものは、夢の器の中では陳腐となる。天国に物語はいらない。夢に現実はいらない。器そのものが物語なのだから、求められるのは熱狂と欲望だけである。さて、ディエゴ・リベラの絵画の話へ移動する。「視覚による大衆煽動家」である彼の話は、予備知識なしでは少し厳しい。この動画を見ると頭の中が整理されるだろう。RCAビルのメインロビーに描かれるはずだった『岐路に立つ男』という壁画は破壊されたが、『宇宙の支配者』という壁画はメキシコで新しく描かれた。『宇宙の支配者』には「性病の暗雲」の下に絵画を破壊したジョン・D・ロックフェラーが描かれているという。レム ・コールハースの語る話は『岐路に立つ男』という壁画が破壊されるまでの物語である。レイモンド・フットという「人間の代理人」はマンハッタンの理論の化身であったのだ。この章の要約はここまでにしよう。さて、暴走したマンハッタンはどこへ向かうのか。マンハッタニズムはインターネットの普及によって、拡張しているのである、グリッドという制限なしに。レム・コールハースは、その危険性にいちはやく気が付き「ヴォイド」という逃避手段を用意した。触れられない聖域として。しかし、もう建築家の力ではどうすることもないところまできている。暴走は止まらない。マンハッタニズムは侵食してくる。資本主義はすべてを染め上げる。ひとつの可能性はそのまま宇宙へと脱出することである。「人新世」の時代において、地球環境に限界がきていることは明らかだ。ある人物は、マンハッタニズムを暴走させることで、成層圏を超えて、宇宙に向かって建物の高さを伸ばしてゆくことを考える。「どこまで建物を高くすれば良いでしょうが?」と群衆はたずねる。「火星まで!」と大きな声が聞こえてくる。火星に行く準備をするのか、地球に残る準備をするのか。地球を救うヒーローになるのか、それとも地球を壊すヒーローになるのか。悪党はグリッドか宇宙人か、それとも自分自身か。善悪は横において、自分の脳味噌を煮詰めて、じっくりと考えなければならない。ヒントを書き加えるなら以下のような質問だろう。リバタリアニズムと全体主義の融合は「グリッド」によってなされただろうか。「グリッド」はなぜ終末といえるほどの不気味さを持っているのか。「グリッド」は無限にひろがる宇宙の静けさと同様の質を持っているのか。「グリッド」は未来から偶然に到来したという意味で思弁的実在論にまで拡張可能なのか。「グリッド」は加速主義を予言していたのか。「グリッド」は透明になっているのか。「グリッド」は外側から我々を見張っているのか。「グリッド」はもともと存在しないのか。「グリッド」の所在を徹底的に考え抜くことで、これからの未来を先取りする必要がある。ちなみに私は、目の前の「体験」を大切することにしたい。もちろん目の前とは、目の前にないものを含むのだが。ところで、木澤佐登志の『ニック・ランドと新反動主義』には、マンハッタニズムの延長線上の未来が描かれている。『錯乱のニューヨーク』の射程のひろさには驚くばかりである。
fig. THE RADIO CITY ROCKETTES | movie via youtube.com

05_第Ⅳ部 用心シロ!ダリとル・コルビジュエがニューヨークを征服する

ダリのPCMもまた一種の強化療法なのだが、ただし方向が逆である。賢者が健常者の振りをする代わりに、健全な精神を偏執症の世界へと観光旅行させることをダリは提案する。
レム・コールハース『錯乱のニューヨーク』 | p393
建築。それは、人から依頼されることもなく、ただ創造者の心の中で理論的仮定の雲として最初は存在していだけの構造物を世界の上に建てる行為である。建築とは不可避にPC的活動という形を取らざるをえない。
レム・コールハース『錯乱のニューヨーク』 | p408
デザイン手段の類型化がつくりだした状態、また、社会が外側から押し付けてくる歪みをもった不健康な状態、また、社会が外側から押し付けてくる歪みを持った不健康な空気からの脱出、自由であって、このためにひとりのデザイナーは自己の様式を発見し、そして強くきたえることによって類型化の傾斜から脱出し、そして同時に、その様式がもつ強いエネルギーによって、外側から押し出してくる後向きの古い様式とたたかうべきだという主張である。
篠原一男『住宅論』 | p92
□memo□
この章では、サルバドール・ダリとル・コルビジュエが取り上げられ、ヨーロッパ人がマンハッタンを「取り戻そう」とするエピソードが描かれている。1920年代後半にダリは偏執症的批判方法を作り出す。これはパラノイド・クリティカル・メゾットの日本語訳であり、PCMと略されている。偏執症とは「解釈妄想」であり、すべての事柄が「最初の出発点である妄想」を強化する形で理解される。つまり、ある自分の信じる渦巻の中ににすべてを巻き込んでゆく方法である。すべては絡みとられる。偏執症的批判方法とは「健全な精神を偏執症の世界へと観光旅行」させ、その観光旅行をスナップショットなどの否定できない「記念品」によって、具体的に証拠づけることである。証拠づけは「スナップショット」などの現実世界において科学的かつ客観的とされているものが良いだろう。その結果「偽り」の事実が「本当」の事実の間に非合法的に存在できる。この方法とは、不安に駆られた「意味作用の充填」という作業なのである。「意味作用を解体」して解釈にひろがりを持たせるのではなく、「意味作用を充填」することで寿命を引き伸ばす。この方法を使うと、永遠に寿命は延びつつけ、現実は不老不死となる。零度というのが凍結ならば、この方法は永遠の溶解である。「偽り」の事実をぶつけることによって、その先にある変様体を生み出すのである。『錯乱のニューヨーク』自体もそうした「過密の文化」という偽りの事実を、現実世界に接木してつくられた書物である。私が引用を2つ並べてメモを書くのは、誰かの引用を現実にある書物に接木することによって、名著の寿命を引き伸ばしたいという願いも入っている。私は偏執症的批判方法を見て、篠原一男の『住宅論』を思い出す。様式というが客体化された時代において、様式というのはつくりだすことができるという肝心なことが忘れられる。だから、デザイナーは「自己の様式」を発見して「強くきたえる」必要がある。「自己の様式」というのは「解釈妄想」に他ならないし、「強くきたえる」ということは、偏執症的な精神を持ち合わせることなしには困難である。レム・コールハースや篠原一男がやろうとしていることは、構造主義が世界のとらえかたの基盤になり、世界に拭きれない閉塞感が蔓延している中で、「解釈学」を建築に持ち込もうとしたことだと思う。これからの建築学に必要なのは「解釈学」という学問形式である。それゆえ私は「体験」ということを繰り返し述べているのである。さて、ル・コルビジュエのニューヨークへの解釈の話へ進んでゆく。ル・コルビジュエは「輝ける都市」という妄想をマンハッタンという都市に継木しようとする。過密の問題を解決するという理由を、本気で信じている。「過密の解消」という問題解決を証拠にして、現実にとって代わろうとする妄想なのである。ダリもコルビジュエも、マンハッタンという幻想の都市に対して、幻想を持ち込もうとする。幻想は現実という背景あってこそ、幻想になりうる。マンハッタニズムは彼らを飲み込んで、消化してしまう。ちなみに、コルビジュエとアメリカについては、ユリイカの『総特集/ル・コビジュエ』に所収されている奥出直人氏の「石、スチール、そしてジャズ」という文章があり、摩天楼とジャズを考察していて面白い。 マンハッタンの航空写真
fig. Manhattan | image via unsplash.com(modified)

06_第Ⅴ部 死シテノチ (ポストモルテム)

文化愛好家たちは金を払ってマンハッタニズムの詩的密度の希薄化に貢献したのである。マンハッタンは、その健忘症によって、単一敷地内での無限に多くの多層的かつ予測不能な活動をもはや支えることをやめてしまう。マンハッタンは明解で予測可能な一義性へ﹣ 既知なるものへ ﹣と後退してしまっている。
レム・コールハース『錯乱のニューヨーク』 | p482
実を言えば、根拠をおくべきところは何も残っていない。われわれには理論的暴力しか残されていないのだ。それは死を賭した極端な思弁〔=投機〕であって、その唯一の方法はあらゆる仮説をラディカルにすることである。コードや象徴界ですらまだ模擬的項であって、それらの項もひとつひとつのディスクールから取り除いていかねばならない。
ジャン・ボードリヤール『象徴交換と死』 | p19
□memo□
この章の主役はウォーレス・ハリソンという男である。前章において『トライロンとペリスフィア』を設計し、『国連ビル』に一枚噛んでいた人物である。この男は両義性の間にいる。『光の都市』という「マンハッタニズム礼讃物」と『デモクラシティ』という「モダン建築」の2つである。その2つの項に引き裂かれブランコ(memo0003)のように揺れ動く。ブランコの奇跡が曲面を描くように「人間性を表わすしなやかな曲線」だけが痕跡として残る。レムコールハースは、ウォーレス・ハリソンの『リンカーンセンター』の持ち上げられた土台から、コーネットの「ヴェネチア」を想起している。さて、レムは「マンハッタニズムの残骸」という言葉から、マンハッタニズムは終焉したかのように描いているのがわかる。ただ、「アルファベットの始まり」と少しだけ続きを匂わせている。「マンハッタニズム」は本当に終焉したのだろうか。実はまだ「マンハッタニズム」の最中にどっぷりと浸かっていて、気づいていないだけかもしれない。はたまた、別のところではじまっているのかもしれない。終焉ではなく周縁にて。東南アジアの世界遺産の出口には、所狭しと屋台が並んで観光客を待ち受ける。そこには熱狂とともに、確実に過密の文化の種があるのを見た。その屋台の列といえば綺麗に配置され、透明なグリッドがあるかのようである。もちろん「トヨタシティ」や「ドバイモール」も近いのだが、どこか熱狂が足りない。それとも「宇宙」にいくしかないのか。「宇宙」にはグリッドは敷かれるだろうか。未知なるものへ突き進む「マンハッタニズム」を渇望している。思弁的実在論は「未知なるもの」への欲望の表れだろう。死かグリッドか。ただ、未知なるものはどこかから落ちてくるものではない。「体験」によって自分の手でつくりだせるはずだ。 リンカーンセンターの外観写真
fig. リンカーンセンター | ウォーレス・ハリソン | image via flickr.com | © ajay_suresh(modified)

07_補遺 / 虚構としての結論

ウェルフェア・パレス・ホテルの正面で、構成主義者らの筏とメデューサ号の筏は衝突する。楽天主義と悲観主義の衝突である。鋼鉄のプールはバターにナイフの刃が入るように可塑的な彫刻をスッパリと切り裂く。
レム・コールハース『錯乱のニューヨーク』 | p518
□memo□
この章においてはレムの「虚構としての結論」が描かれてる。さらに詳しく知りたい人は、ロベルト・ガルジャーニの『レム・コールハース|OMA 驚異の構築』を読むとよい。この章に関しては私自身わからないところが多いので、感想程度のものに留める。『囚われた球を持つ都市』は運動そのものが、囚われの球を保育している。自律的な運動の総体が、逆説的に球を育ててゆく。この球が現代において何なのかを考える必要がある。それは「グリッド」を超えた未知なるものである。このイメージを見た時にやはり頭に浮かぶのはワルター・ベンヤミンの『パサージュ論』である。『パサージュ論』を具体化したイラストにするのならば、こうした図になるのだろう。ひとりひとりの引用が並列される。しかし、それは決して辞書ではない。引用の個性が強ければ強いほど「何か」強化されてゆく感覚。この「何か」を「囚われの球」として提示された。いずれ何かが殻を破って出てくるのだろうか。『ホテル・スフィンクス』『ホテル・スフィンクス』『ニューウェルフェア島』は先ほどあげた本に詳しい。とりわけ『プールの物語』はレムにとって思い入れが強いようだ。『ウェルフェア・パレス・ホテル』を見て欲しい。この絵画の下方にあるのが『プールの物語』に出てくる「メデューズ号の筏」であり、右下にあるのが「漂うスイミングプール」である。そうしてそれは、衝突するのである。読書メモはここまでである。すごく長くなってしまったのは、『錯乱のニューヨーク』が色褪せない名著だからある。この程度の知識なき建築家は、もはや建築家ではないだろう。私は『錯乱のニューヨーク』を読んだうえで、それでも建築を信じてみたい。建築家ではない人もぜひ一読をしてもらえると面白いだろう。建築がいかに深い思想を持って設計されるのかを知っていただければ幸いである。
山地大樹 / Daiki Yamaji
memo / 2021
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レム・コールハース『錯乱のニューヨーク』
01  レム・コールハース『錯乱のニューヨーク』#1
序章 /  前史 /  第Ⅰ部 コニーアイランド (空想世界のテクノロジー) /  第Ⅱ部 ユートピアの二重の生活 (摩天楼) /  錯乱のニューヨークの表紙(マデロン・ヴリーゼントープの絵画)
02  レム・コールハース『錯乱のニューヨーク』#2
第Ⅲ部 完璧さはどこまで完璧でありうるのか (ロックフェラー・センターの想像) /  第Ⅳ部 用心シロ!ダリとル・コルビジュエがニューヨークを征服する (ロックフェラー・センターの想像) /  第Ⅴ部 死シテノチ (ポストモルテム) /  補遺 (虚構としての結論)
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