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【House for boxes】で考えたこと 箱を動かす体験と建築

概要

《House for boxes》という住宅を設計した。日本語に訳すと《箱のための家》となる。このテクストは住宅を設計するなかで考えたことを示したものである。具体的なプロジェクトの概要はこちらのページに掲載し、より細やかなコンセプトをまとめたコンセプトブックはこちらのページに用意した。ここではよりエッセイに近いものを書こうと思う。少し長いテクストになってしまったので上記に目次を付けた。興味があるところから読んでいただければ嬉しい。

宙吊りにされた体験未完成の建築模型

人生はつくるものだ。必然の姿などというものはない。

坂口安吾「教祖の文学」

幸運にも4人家族の住宅を設計する機会をいただいた。依頼者は建築の雑誌を眺めることを趣味としている建築好きな男であった。日本の住宅建築の歴史に詳しいようで、はじめて顔を合わせた時、2枚の建築写真を机の上に並べてこう言った。「これらの住宅を超えるような新しい住宅を考えて欲しい」と。2枚の写真に写っていたのは、篠原一男の《白の家》と坂本一成の《散田の家》であった。従来の概念を一変させるような新しい形式の生きるための住宅を提案して欲しいという強いエールのようであった。

彼の唯一の要望は家族や友人らが集まれる広い場所が欲しいということである。彼は自室に閉じこもるタイプであるが、基本的に人間が好きであった。彼を納得させるような美しく、そして本質的な住宅を設計しなければならない。まず、敷地条件から可能なかぎり大きな閉じた箱を用意して、そのワンルームのなかに部屋をどのように配置するのかを検討しながら、幾つも幾つも模型をつくった。考えられる部屋の配置をすべて試して、ひとつずつ空間を確認していった。

一般的な設計のプロセスにおいては、幾つかの案を比較しながら善いところを拾い上げ、最適なものに近づけてゆくのだが、今回は異なるプロセスをとることになった。なぜなら、完成形に近づく気配がまったくなかったからである。模型をつくって彼のもとへ持ってゆくと「ここをこうしてください」とか「ここはこうしないでください」と意見をもらうのだが、詳細を詰めてゆくと「これはまったく違う」と必ず拒否される。設計は決まらないままに時間だけが流れていった。

ある時、彼は完成を望んでいないのではないかと感じた。彼は永遠につくり続けていたいのだろうと想像した。おそらく彼は住宅を設計する行為そのものを楽しんでいるのだ、まるでレゴブロックを組み立てる子供のように。ある日のこと、簡易的に部屋を動かせる模型をつくって見せてみることにした。彼は喜んだ顔をして、模型を動かしながら妻とともに未来を描いていた。生き生きと生命力に満ち溢れ、なにより楽しそうな彼の姿が印象的だった。《未完成の建築模型》が次々と夢を紡いでゆくというだけで、希望を感じることができた。

その日は夜まで話して何も決まらなかったのだが、私は確信した。彼はずっと模型を動かし続けていたいのだ。設計された家に住みたいのではなく、設計する主体でいたいのだ。自身の住まいを考えるという魅力的な体験をいつまでも続けていたいのだ。そこで、プランのないプランを提案することにした。模型を動かす体験そのものを膨らませるような未完成の建築。そんな建築ができたなら、彼はずっと鮮やかな夢を語り続け、生き生きとした未来を信じることができるだろう。

空間をしつらえる装置穴のあいた箱

本来「家」とは「在る」ものではなく、「成る」ものです。

寺山修司「家出のすすめ」

大きなワンルームの中で小さな箱が動き続けるというプランを持っていった時、彼はとても驚いた顔をして「これが求めていたものだ」と言った。想像したとおり、誰かにつくられた空間ではなく、自身の手でつくりだす空間を求められていた。隙なく計画された客体としての建築ではなく、住まい手が主体的につくり出す建築。方向性は間違っていないという確信があった。しかし、プランのないプランをいかに計画するのかという困難にぶつかった。

建築というのは建築家の表現である。建築家が表現の痕跡を消し去ろうと必死になっても、建築家の匂いがどこかしらに残ってしまう。表現でない建築などというものは幻想であり、建築の表現の力を信じない建築家に建築をつくる資格はないと思う。秩序だった美しい住宅を設計するという建築家としての表現の責任があり、それゆえに、未完成で表現のない建築を提案しようとしていることへの不安が付き纏った。表現のない表現をいかに表現すればよいのか。

そこでプランそのものではなく、プラン自体を美しく変様させる装置を考えることにした。プランを変様させる装置そのものに着目して、《表現された後に現われる建築》が秩序をもって美しくなるように思索を重ねた。まず引き戸という装置に注目した。リートフェルトはシュローダー邸の2階において引き戸をつくり、ある時にはワンルームの空間が生まれ、ある時には4つの空間へと分割できる柔軟なシステムをつくった。引き戸を用いることで住まい手は空間をコントロールすることができる。

シュレーダー邸

シュレーダー邸 ©Thalia Potamou

リートフェルトによる名作住宅であり、モンドリアンの抽象画を建築にしたようなつくり方である。デ・ステイルの代表作であるが「構成」というやり方は住まい手の本来的に生きる力を喚起できるのか。客体としての構成には慢心のかげが横たわっていないだろうか。

とはいえ、引き戸という装置は決まったレールに沿って動くのだから、建築家の強い意志が反映されてしまう。引き戸は建築家の敷いた線に従属するのであり、結局のところ住まい手は自由に空間を表現できない。空間の自由というものは住まい手が自らの手で掴むべきであり、建築家が与えるようなものであってはならない。押し付けがましい建築はただの傲慢で、住まい手の可能性を潰してしまう。そこでレールを失った引き戸のようなものを考えてみる。自由に走りまわる、リードを失った飼い犬の群れ。

ヒントは平安時代の住居にあった。平安時代には《しつらい》という行為が一般的であった。当時の貴族の邸宅は寝殿造りという様式であり、壁や建具で仕切られた塗籠という小さな部屋を除いて、ただ丸柱が立ち並ぶだけの区切りのないワンルームであった。大きなワンルームのなかで、日々の生活や季節の変化や行事や祭礼に応じて、屏風、御簾、几帳、衝立、畳、円座などを用いて内部の空間を仕切り、その都度の空間を演出していた。

源氏物語絵巻

源氏物語絵巻 @The Art Institute of Chicago

建具で囲われた空間(母屋、庇)は、その内部を調度(道具、家具など)によって室礼されていた。例えば簾、几帳、屏風などである」と安原盛彦は述べている。上記の屏風絵からは色鮮やかな布のようなもので空間が仕切られていることが分かる。建築を使う人が、その時々に応じて自由に空間を表現している。

空間をしつらえることは、日常の風景を自分自身の力でとらえなおし、生活を豊かに変様させることである。しつらいは人間と空間の間に挟まれた蝶番としての《生きられた体験》のひとつである。うつろう時間に応じて日常を変化させながら、目的に合わせて空間を飾り整えゆく。この豊潤な体験はいつからか失われていったものである。「しつらい」は「インテリア」という言葉に回収されて建築の領域から切り離され、家具の領域へと切り替わってしまった。しつらいを建築の領域に取り戻さなくてはならない。

そこで、家具の領域を大きく膨らませて建築にまで高めたいと考えた。とはいえ家具をつくるだけでは建築家としてあまりに無責任である。建築は単なるインテリアではなく、それ以上の強さを持つはずなのだから。設計すべきは建築としての「しつらい」である。シュローダー邸の引き戸のように空間を規制する道具ではなく、日常をしつらえるという生きられた体験を膨らませる装置。空間をしつらえる装置ではなく、しつらえるという一枚の体験そのものを膨らませる装置を設計しなくてはならない。

しつらいという住まい手の体験が建築をかたちづくる。住まい手たちの生きられた体験の帰結として建築が現われてくる。これこそが《表現された後に現われる建築》である。近代以降、ミース的な均質空間が台頭してから、しつらいを含む生きられた体験は座標平面で飼い慣らされて、響きや膨らみや手触りを奪われ、額縁の中の絵画のように安全で無菌なものとなった。迫害された生きられた体験は、家具の領域へ逃げ込むしかなかった。だからこそ、家具の領域をもう一度みなおして、建築にまで高めなくてはならない。

空間のような家具であり、家具のような空間。家具そのものがひとつの空間であり、それと同時に、空間そのものが家具によってしつらえられる。こうした奇妙な二重性を持つような装置を考えていると、不意に穴のあいた箱というメタファーがふわりと思い浮かんだ。昔に読んでいた安部公房の『箱男』の風景が結びついたのかもしれない。こちら側とあちら側という二重の視線を孕みながら、それでいて足の生えた亀のようでもあり、自由に空間を飛びまわる鷲のようでもある、そんな箱を求めていた。

乾いた境界としての引き戸は内部を持たないが、膨らみをもった立体としての箱は内部を持つ。貝殻のように硬くて、それでいて柔らかい。なにかが育まれるのはいつも内部であり、不確定な情熱は内部から湧きたつ。真珠を捜していたいのである。箱はほとんど卵でもある。内側の生命が殻に穴をあける。ひびの入った箱は未知なるものを供給し続け、それでいてどこか懐かしい記憶を受け容れ続ける。穴のあいた箱が空間を整えて、そして乱す。

箱を動かしている人

穴のあいた箱

《House for boxes》の内部に設置された空間をしつらえる装置としての箱の断面模型。縁側と同じ高さに持ち上げられた床の下にはタイヤが隠されていて、外側からはタイヤは見えない。箱男の一説にはこう書かれる。「箱の中は暗く、防水塗料の甘い匂いがした。なぜか、ひどく懐かしい場所のような気がした」と。

他者を存在させる箱箱を通した対話

たとい襖や障子で仕切られているとしても、それはただ相互の信頼において仕切られているのみであって、それを開けることを拒む意志は現わされておらぬ。だから隔なき結合そのものが襖障子による仕切りを可能にするのである。しかし隔なき結合においてしかも仕切りを必要とするということが他方では隔なき結合の含んでいる激情性を現わしているのである。

和辻哲郎『風土』

空間をしつらえるための箱を家族の人数である4つ設計して、大きなワンルームの中に散りばめることを考えて、出来立ての平面図を手元に彼のもとへ訪れていた。家族が1人あたり1つの箱を所有すると説明した時に、「箱が邪魔になったらどうすればいいのだろう」と彼は言った。純粋で興味深い言葉だと思った。箱の異物性を敏感に感じ取ったのだろう。なぜ、箱が気になるのだろうか。多分、この異物性は《他者の存在》と呼ばれるものに関連している。

彼自身の箱は気軽に動かすことができるが、妻の箱を動かすときには妻の存在を感じる。たとえ彼の妻がそこにいなくても、箱には妻の存在の痕跡が残されていて、箱は妻への想起をうながす。家族の箱が家の中に転がっている。この奇妙な現実は他者の存在を意識するきっかけになる。すなわち、箱というモノを通すことで家族の存在を再認識することができるのである。物表象は、人間関係や社会生活を送るうえでとても重要な役割を持っていて、他者を想起させる鍵となる。

箱のある住宅の平面図

箱のための家の平面図

4つの箱が大きなワンルームのなかに散りばめられている。小さな箱は家族ひとりひとりに割り当てられ、箱と片隅に囲まれた空間がひとりひとりの個室となる。隔なき結合は信頼と激情を現わしていて、箱を動かす時に他者とのコミュニケーションが起きる。このコミュニュケーションはモノからはじまったのであり、コトバからはじまったのではない。語表象ではなく物表象での対話の可能性であり、無意識の対話といえるかもしれない。

同棲しているカップルが並べられた歯ブラシを通して愛を確認するように、大切な存在はモノを通して意識される場合がある。目に見えるモノを通して、目に見えないモノが確からしいと気がつくのであり、モノを媒介にして想起と対話が生まれる。小学校で、一人ひとりの生徒に机が与えられたことが、アイデンティティを形成する重要な役割を担っていたことを思い出す。あの生徒は登校していないのかと自然と気を遣い、教科書を忘れた生徒は机をくっつけて会話を重ねた。各個人に机がある、ただそれだけで他者への想起と対話が発生する。

現在の住宅のつくり方では他者の存在を気遣うような機会はあまりない。家族ひとりひとりに個室が割り当てられるのが慣習になっているからである。いわゆる《nLDK型》と呼ばれる住宅の型であり、壁で完全に仕切られた個室の中で各々が生活を育む。個室の中では誰にも干渉されずに好きな時間を過ごせるし、個人の好きなモノだけをおくことができる。他者に気をつかう必要もなく、とても居心地よく自由に過ごすことができる。

しかしながら、モノを通じて他者の存在を意識するならば、《nLDK型》の住宅では他者の存在には気がつくことはできない。各々の個人の部屋の中では《他者の存在》は徹底的に排除され、壁で隠蔽されているのだから。他者を排除するということは、逆説的に他者を頼るための回路を切断するということである。個室という考え方は一歩間違えると危険である。他者に気を遣えない人をつくり、そして他者に頼ることができない人を産み落としてしまうから。

とりわけ個人主義的な生活態度が馴染んでいない日本において、隔絶された個室という考え方は不健康だと思われる。居場所がないことを訴える人々が増えゆく現代社会において、個室という住宅の形式がどれほどの孤立を生み出しただろうか。私はプライベートを一括りに否定したいのではなく、プライベートの境界線が硬くて大きな壁と一致していることに危険を感じているのである。壁の位置は動かすことができず、他者のモノたちは隠蔽される。それが健康な状態ならば、そんな健康にはなりたくない。

個室という隅々までコントロールされた部屋ではなく、家族の所有物である箱が当たり前のように転がっていて、箱との距離を自分で探りながら向き合うような柔軟な姿勢が求められている。住宅や家庭とは、そういう姿勢を学ぶ場所ではなかったか。襖や障子で空間を仕切っていた時のように、プライベートの境界線をその都度に変えられることが重要である。境界を変える時に、コミュニケーションが起きたり、他者の存在を信頼してみたりする。そうして新しいなにかが発見されてゆく。

箱のヴァリエーション

箱の配置

4つの箱は細胞のように動きまわる。箱同士を横並びにつなげることもできる、隅っこに仕舞い込むこともできる。様々なヴァリエーションが生まれるように箱の寸法を丁寧に調整した。

他者を存在させるための箱を用意してみたいのである。箱というモノ自体を賞賛しているわけではなく、箱というモノが未知なるなにかへの架け橋となることを期待している。箱は《体験の帰結》である。箱は誰かが過去に動かしたものであり、誰かがこれから動かすべきものである。箱には過去と未来が内包されている。過去とは痕跡としての箱であり、未来とは可能性としての箱である。それらを産み出すのは、現在を生きる主体の体験に他ならない。

物語を紡ぐ鍵は箱を動かすという主体の体験である。人間とモノが体験という蝶番を通して結ばれることで、家族という他者の存在が浮上するだけではなく、自分自身すらも他者の存在となる。持ち主は箱を通して主体と客体の逆転現象に巻き込まれる。はじめは箱を動かすという主体であった彼は、彼自身が動かした箱が目に見える形で放置されることによって、今度は箱に影響を受ける客体となる。箱を通して、彼は他者にもなり得る。

箱という装置を通して、自己は対話を繰り返してゆく。箱を通した人間と空間の終わりなき弁証法は、自己を絶えず変様させて、自己の地平を限りなく広げてゆく。箱は単なるきっかけではなく、体験の加速装置である。その変様を速めて、その変様を震わせ、その変様を響かせる。箱には厚みがあり、体験は膨らむのである。箱を動かすという生きられた体験によって、他者を理解して、そして自己を理解する。箱は他者を存在させ、そして自己を存在させる。

空が見える隠れ家への変身巣と洞窟のイメージ

その多くの花は
みちあふれ
内部の世界から
外部へとあふれでている
そして外部はますますみちて 圏を閉じ
ついに夏ぜんたいが 一つの部屋に
夢の中の一つの部屋になるのだ

リルケ「薔薇の内部」

箱の上部を寝室にする提案をすると、「朝に明るい光が入る寝室がいい」と彼は言った。太陽の光とともに起床することは、人間が持つ欲求の中でとても大きな位置を占める。彼がこんな単純なことをわざわざ口にしたのは、この住宅のある仕掛けに気づいていなかったからである。その仕掛けとは箱の上部のロフトが部屋へと変身するというものだ。住宅の天井には天窓を兼ねる大きな凹みが9つ設けられていて、箱を天窓の下へと移動することで部屋が生まれる。

天窓と箱の関係

天窓と箱の関係

天井には9つの天窓がある。中央の一つはとても巨大なもので、周りの8つは小さなものである。この下に箱を移動させるとロフトは途端に大きな空間になり、空をひとり占めする小さな部屋が現われる。住まい手は日々移り変わる風景を持つ小さな部屋を選ぶことができる。

この住宅の中では部屋は与えられるものではなく探すものある。しかしながら、ただ単に部屋を探すというだけではない。箱を移動するという体験によって、ロフトと天窓は部屋へと変わる。これは《意味の変身》であり、人間の本質的な創作的態度のひとつである。私が常々感じているのは、なにかを変身させるためには人間の生命の躍動ともいえるエネルギーが要求されるということである。この場合、箱を動かすというエネルギーが、天窓を部屋へと変身させている。

ただ待っているだけでは変身はほとんど起きないし、たとえ起きたとしてもそれは単なる変化であって自分の身体に深く入り込むような立体感が伴わない。カフカの『変身』の冒頭を思い出すと、「ある朝、グレーゴル・ザムザが何か気がかりな夢から目を覚ますと、自分が寝床の中で一匹の虫に変わっているのを発見した」とある。ザムザは虫に変身したのではなく、虫に変身した自分を発見するのである。その変身した身体はひどく遠くにあり、乾いていて、疎外されている。

このような乾いた変化をいくら経験したからといって、人間に厚みは生まれないし、そんな変身を賛美する虚偽にも飽きている。やはり、変身のためのスイッチは人間が主体的に押さなければならない。スイッチを押すという一枚の体験は受動的なものではなく、能動的に為されるべきであり、勇敢な生きた活力が必要なのである。それは草原の中で居心地の良い木陰に吸いよせられるようなものではない。居場所というのは、自分自身の手でつくるから居心地がよいのである。ときおり、豊かな建築が《巣》のようなものではなく《洞窟》のようなものとして例えられることがある。

居場所とは、人が居るための場所である。しかしそれは人が居るためにしつらえられた場所ではない。ある場所を、人が発見することであり、そのきっかけに満ちた場所である。それは例えば「巣」ではなく「洞窟」であると言ってよい。巣はそこに住むものに合わせてつくられるが、洞窟はただそこにあり、その起伏の中に、居場所が見出される。だから居場所は部屋である必要はなく、もっとかすかな、起伏のようなものであるはずだ。

藤本壮介『建築が生まれるとき』p74

建築家が恣意的につくった巣ではなく、住まい手が場所を探す体験のきっかけに満ちた洞窟のような「曖昧さの秩序」を示した秀逸な比喩である。私はこの洞窟の例えがとても気に入っていたのだが、ある時から疑問を持ってしまった。洞窟にはの生きるエネルギーとか情熱が欠けている気がしたからである。住まい手は洞窟の中で居心地の良い場所を探すことしかできないから、建築家は洞窟をつくるのだという傲慢さを感じてしまったのである。住まい手は洞窟を創造することなどできず、洞窟のうえで居場所を見出すことしかできないだろう、という開き直りに悲しくなったのである。

誤解のないように述べるが、押し付けがましい傲慢な建築家像を否定するという意味で目指すところは同じである。ただ、建築家が洞窟という大きく柔らかい容れ物をつくることに違和感を感じたのである。そもそも建築するとは巣をつくることでに他ならず、その構築への意志が建築を建築たらしめるもののはずである。人間が時間をかけてつくりあげた巣の方がよほどエネルギーに満ち満ちていて生きた居場所ではないか。たとえそれが歪であったとしても、洞窟に到底及ばなくても、巣を堂々と賛美するべきではないか。

そうだ、世界の粘土をわれわれの隠れ家のまわりにこねあげ、かためることを、なぜわれわれはやめなければ行けないのか。人間の巣、人間の世界はけっして完成しない。そして想像力はわれわれがこの仕事をつづけるのをたすけてくれる。

ガストン・バシュラール『空間の詩学』p192

洞窟は洞窟でありそれ以上の何物でもない。しかし人間は創作的な態度を持った生き物であり、洞窟のなかに居場所を見出すだけではなく、洞窟のなかに巣を創作することもある。洞窟に抵抗しながら、洞窟を巣の一部へと飼いならそうとする。主体の熱に浮かされて、洞窟は巣へと変身する。洞窟から居場所を見出すことが単なる発見ならば、洞窟に巣をつくることは劇的な変身である。与えられたものは人間の手によって意味が変身する可能性がある。そうして変身した場所こそ「居場所」ではないだろうか。洞窟は、その上に展開される巣に回収される。

愛の巣という言葉がある。愛し合う二人が愛を育む住まいである。愛が育まれる居場所の比喩は洞窟ではなく巣である。そして、小さな巣に新しい命が宿る。洞窟は人間にとって少し大きすぎる。洞窟は私たちを突き放すが、巣は私たちを包みこむ。洞窟は低いところにあり、巣は高いところにある。洞窟は奥へと続くが、巣は空に開かれている。もし住宅が閉じられた洞窟であるなら、閉じられた洞窟の中で巣をつくり出すことはなんとロマンティックなことだろう。そうして創作された巣は、もはや洞窟を凌駕して、今度は洞窟を飼いならすのである。

部屋へと変身したロフト

部屋へと変身したロフト

天窓の下に移動された箱。昼には太陽が入り、夕方にはオレンジの光が見え、夜には星空が見える。雨が降り注ぐこともあるし、雪が積もることもある。鳥が飛んでいることもあるし、飛行機が横切るかもしれない。空全体がひとつの部屋となり、その時々の風景が浮かびあがる小さな巣である。

巣はいつも空に向かって開かれ、鳥は飛び立つことができる。巣は空の一部を征服し、空全体を一つの部屋に変えてしまう。住人が天窓を独り占めするとき、洞窟は巣へと変身する。私は洞窟という曖昧なものをつくりたくないし、巣という押し付けがましいものをつくりたくない。そうではなく、住まい手が巣をつくろうとした時に住まい手の背中を押し、そのエネルギーを増幅させるような《体験の加速装置》としての建築をつくってみたいのだ。住まい手の巣づくりを加速させる建築が必要である。

風景を変様させる鏡こことあそこの循環

永遠に製作し活動する生々の力が、
愛の優しい埒らちをお前達の周囲めぐりに結ゆうようにしよう。
お前達はゆらぐ現象として漂っているものを、
持久する思惟で繋ぎ止めて行くが好い。

ゲーテ『ファウスト』

彼は緑のなかで本を読み、空のうえの鳥の声を聞き、目の前の花を愛でた。風景を愛する彼の顔は、住宅が閉ざされていることへの不安を物語っていた。風景が遠くのほうへ行ってしまうのが怖かったのだろう。風景、この魔法のような言葉は一体どこにあるのだろうか。人間が知覚や気分によってはじめて成立する《ここ》にあるものなのか。それとも人間から遠く離れたどこかに存在する《あそこ》にあるのものなのか。

人間のいる場所はつねに《ここ》である。人間は《ここ》から抜け出すことはできない。《あそこ》へ行ったつもりでも、気が付くとに《あそこ》は《ここ》になっている。《ここ》は人間を中心に円形にひろがっている。《ここ》と《あそこ》の境界線は鉛筆で引かれた一本の線のようなものではなく、柔らかく伸び縮みする皮膚のようなものである。境界としての皮膚はじめからそこにあるものではなく、体験によって見出されるヴェールである。

私の見るかぎりのところでも小さなこの空間が、私の知らない、そして私を知らない無限に広い空間のなかに沈められているのを考えめぐらすと、私があそこでなくてここにいることに恐れと驚きとを感じる。なぜなら、あそこでなくてここ、あの時でなくて現在の時に、なぜいなくてはならないのかという理由は全くないからである。だれが私をこの点に置いたのだろう。だれの命令とだれの処置とによって、この所とこの時とが私にあてがわれたのだろう。

パスカル『パンセ』

風景とは《ここ》と《あそこ》が織り合わされた織物である。《ここ》という成分だけを含んだ無垢な現象でもないし、《あそこ》という成分だけを含んだ無垢な物質でもない。この2つの成分はまったく均等に振り分けられているわけではなく、どちらかの成分が大きくなったり小さくなったりする。《ここ》と《あそこ》の対立は静止せずに循環を生みだし、循環による揺らぎが風景を漂わせる。

いずれかの成分が捨象されて彼岸にまで達すると、風景は景観と呼ばれる。《ここ》しか持たない風景は景観であり、《あそこ》しか持たない風景も景観である。どちらの極致も遠くの客体であり、循環も変様も失われているから、生きられることなどない。客体として固定された景観は権力を持って迫りくるが、主体として変様する風景は権力をもたずに漂う。景観は無味で冷たいが、風景は甘く優しい。人間は風景を愛するのであって景観を愛するのではない。

私たちは日常の中で風景に包まれていると感じることはほとんどない。日常で感じている風景は、あまりに自明に了解されているために《ここ》しか持たない景観と化していて、《あそこ》の成分を忘却している。一方で、写真に写った風景や動画でみる風景も、あまりに自明に了解されているために《あそこ》しか持たない景観と化していて、《ここ》の成分を持っていない。どちらも景観であり、風景ではない。これを風景にするためには、《ここ》と《あそこ》のふたつの成分を繋ぎ止めなくてはならず、両者をつなぎ止めるのは《主体による生きられた体験》である。

例をあげるのならば、写真に撮られた山からの眺めは《あそこ》の成分しか持たない景観であり、写真に撮られなかった山からの眺めは《ここ》の成分しか持たない景観である。自分の脚で登った山からの眺め、これを写真に撮ってはじめて《ここ》と《あそこ》を持ち合わせた風景となる。汗を流しながら山を登るという生きられた体験が、《ここ》と《あそこ》を織り合わせるのである。優しく熱情を帯びた風景をつくるために建築家のすべきことは、《あそこ》を近くへと引き寄せながら《ここ》を遠くへと引き離すような、《ここ》と《あそこ》のつなぎ目として挟みこまれた、生きられた体験を膨らますことである。

景観ではなく、風景をつくることが建築家の使命である。そのために、主体の生きられた体験を膨らまさなくてはならない。体験によってかろうじて繋ぎ止められた風景は、体験のたびにゆらゆらと変様してゆく。主体が風景をつくり出す体験を膨らますために、住宅の箱の一面に鏡を貼ることにした。鏡は反射という魔法を駆使して《ここ》のなかに《あそこ》をつくり出す。鏡のなかにある《あそこ》は《ここ》を現前させ、目の前にある《ここ》は《あそこ》を現前させる。鏡はそうした循環を生み出し、風景を変様させる速度をはやめる効果がある。

鏡に囲まれた空間

鏡に囲まれた風景

一枚の風景は鏡によって変様してゆく、パリの街並みを遊歩するかのように。「パリは、それが神的なものにせよ、悪魔的なものにせよ、たがいを映しあう鏡像のような遠近法への情熱を持っている」とベンヤミンは書いている。

私たちがいる《ここ》は《あそこ》にとの循環によって変様する。人間は《ここ》という土台のうえに立っているから、《ここ》を変えると足場が揺らぐ。《ここ》は気軽に変えられない。しかし箱に貼られた鏡のなかの《あそこ》は持ち運ぶことができ、そして編集することもできる。それは写真に似ている。小さなカメラは世界を切り取って周囲から孤立させる。箱の輪郭によって《あそこ》は切り取られ、世界は枠のなかに幽閉される。

切り取られたものは編集される。鏡という境界は物体を非物体へと移行させる。単なる平たい表面である《あそこ》は気軽に加工され、そして編集することができる。写真に文字を書き込むようにモノを載せることもできるし、写真から不要なモノを取り除くこともできる。フォトショップのように簡単に切り貼りされてゆく。世界は一枚の紙となって表面に貼り付けられ、手軽に着せ替え可能になる。

この住宅の風景はこのようにの生まれ、変様してゆく。鏡は《ここ》に《あそこ》の成分を生み出す。鏡のなかの《あそこ》の成分は日常のなかに自明に存在していた《ここ》の成分とまざり合って一枚の風景となる。一枚の風景はしばらくすると日常に馴染んで《ここ》へと堕ちてゆく。そこで住まい手は箱を動かすという体験によって新しい《あそこ》をつくりだす。《ここ》の風景は再び変様してゆく。こうして循環が繰り返され、風景は景観としてとまることはない。

さらに箱は4つある。恣意的に編集された《あそこ》が別の鏡のなかの《あそこ》となってひろがる。それは、パサージュのパノラマのようでさえある。《ここ》の現前性だけが強調されるのではなく、《あそこ》の別世界性だけが強調されるのでもない。箱を動かすという生きられた体験によって、風景そのものが揺らいで変様する。遠いのか近いのかも分からない。ただ、箱を動かすという体験が《ここ》と《あそこ》を繋ぎ止めていること、それだけは確からしい。

開けられる監獄と片隅囚人を詩人にする体験

家のすべての片隅、部屋のすべての角、われわれが身をひそめ、からだをちぢめていたいとねがう一切の奥まった片隅の空間は、想像力にとっては一つの孤独であり、すなわち部屋の胚種、家の胚種である。

ガストン・バシュラール『空間の詩学』p240

彼はプランを見て不思議そうな顔をして「プライベートな場所は何処にあるのか?」と質問した。私は「孤独になりたいときは片隅へ避難してください」と答えた。片隅は想像力の国への入り口であり、閉じかけた蕾である。そのなかには甘い夢の蜜が無限に湧き出て、人間は蜂のように吸い込まれる。プライベートな場所は、批評家が語るように《客観的》に閉じられている必要はなく、現象学者が語るように《主観的》に閉じられていればよい。

プライベートな場所は閉じられるべきだと多くの人は考えるが、それは《主観的》なイメージの話であり、《客観的》な建築形態の話ではない。これを取り違えてはならない。主観的なイメージをそのまま形に落とし込むのではなく、そのイメージを事細かにを問いなおす必要がある。なぜなら《主観的》なイメージは《客観的》な建築形態によって育まれたものであり、逆もまた然りなのだから。両者は互いに循環しながら生彩を帯びてゆく。

《主観的》な閉じたイメージをそのまま《客観的》な建築形態に置き換えると監獄が生まれる。部屋を壁で囲って堅牢な鍵をつけるのは監獄と同じである。物理的に閉じられた部屋に自らへ入る者は自発的に幽閉される囚人である。しばしば「建築家とは所詮、獄舎づくりにすぎないのだ」などと言われるのは、人間が閉じられた場所を欲していることに依る。人間は誰しも引きこもりたいのだ。とはいえ、私たちは監獄と片隅の違いを探らなければならない。

「閉じられた監獄の居心地のわるさ」と「片隅の居心地のよさ」の違いに目を向ける必要があり、その違いを突き詰めると決定的な違いにたどり着く。両者の差異を一言で述べるならば、空間を開いたり閉じたりする自由があるかどうかである。閉じられた監獄のなかでは囚人はドアの鍵を開けることはできなず、囚人は空間を開け閉めする権利が剥奪されている。監獄は自由に開けることができない。監獄の息の詰まるイメージはこの小さな事実にすべて由来する。

一方で、片隅においてはドアを自由に開くことができる。すなわち、空間を開く自由が保証されている。自分の意志で空間を開いたり閉じたりするということは、部屋を幸福で満たすための十分条件である。プライベートの居心地の良さというものは、空間を開け閉めできるという自由のうえに成立するのであり、そうでなければ途端に息がつまるものである。部屋の幸福感を説明するにはこの差異を踏まえる必要がある。

しかし片隅はまず、われわれの存在の第一価値、すなわち不動をたしかなものとしてくれる避難所である。それは確実な場所、私の不動にもっとも近い場所である。片隅は、半ば壁、半ば戸である一種の半分の箱なのだ。

ガストン・バシュラール『空間の詩学』p241

片隅というのは《主観的》には閉じられているが、どこかしら開きそうな気配を持っている。巣、貝殻、抽斗、これらは《主観的》には閉じられているが、《客観的》に開くという自由が保証された片隅である。巣は空に対して大きく開いているし、二枚貝の隙間は今にでも開きそうであるし、開けられない抽斗は想像できない。私たちはそのなかに入りこみ、そこから出てくることができる。そんな自由が容易に創造できることが、片隅の居心地の良さを保証している。

対して、監獄は、《主観的》には閉じられていて、《客観的》に開く気配すらない。唾液と泥でつくられた燕の巣や、海老や蟹の殻や、パンドラの箱や壺、これらは《主観的》には閉じられていて、重厚でとても開けられない監獄である。唾液と泥でつくられた燕の巣は重厚な塊であり、甲殻類の殻のなかにはぎっしりと身が詰まっている。パンドラの箱は開けてはならないし、壺には中身が分からない恐怖がある。私たちはそのなかに入りこめないし、入り込みたくもない。

片隅が半分であるという性格は、空間を《客観的》に開け閉め可能だという自由の帰結である。人が愛するプライベートな場所のイメージは、閉じていながら、それでいて開く気配がある場所である。気軽に開け閉めすることができ、入りこめること重要である。想像力の国へ旅するためには、空間を開け閉めする自由が保証されなければならず、そのメタファーが片隅なのである。片隅でひとは詩人になり、監獄でひとは囚人になる。建築家は住人を囚人として閉じ込めるべきではない。

片隅と波紋のイメージ

片隅のイメージ

片隅は《主観的》に閉じながら、《客観的》に開く気配がなくてはならない。その開いている部分が《あそこ》の想像力を喚起させる。それは、片隅を中心とした波紋のイメージである。波紋は円形であるから閉じている。そして、どこまでも広がってゆく。重厚に閉じていたら波紋の広がりはそこで止まってしまうだろう。

もし空間を開いたり閉じたりできる自由が居心地のよさを産むのであれば、空間を開いたり閉じたりする体験そのものを設計することで片隅が生まれる。すなわち《閉じた場所》をつくるのではなく、住人の手で《閉じられる場所》を設計する。監獄をつくるのではなく片隅を設計する。監獄を開け放ち、囚人を詩人へと変える。人は誰しも詩人になれはずであり、建築家は囚人が詩人となる手助けをすることができるだろう。

囚人は時に素晴らしいユーモアを生み出すが、あらゆる囚人がユーモアを産み出せるわけではない。だから、監獄を理想とするのではなく、空間を開けたり閉じたりする自由な体験を膨らませなければならない。この住宅では片隅としてL字型の机を配置し、半分だけ囲まれているような個室のような空間を設計した。箱を動かすことで「空間を閉じる」ことができ、箱を動かすことで「空間を開ける」ことができる。箱を動かすという体験そのものが、空間を開いたり閉じたりする自由を保証する。この空間はどこまでもひろがってゆく。

片隅の空間

片隅の空間

住宅のなかに設計された片隅の空間。L字型のデスクが設置され、小さく囲まれている。箱を移動することで空間を閉じたり開いたりできる。

「開ける」ことと「閉じる」ことは対概念であるから、「開ける」自由が保証されるためには「閉じる」自由が保証されなければならない。《閉じられた場所》と《開かれた場所》の接点は、境界面に開けられた開口部ではない。主観的なイメージを客観的なイメージに安易に落としこむことは危険である。むしろ、《閉じられた場所》と《開かれた場所》の接点は、両者を繋ぐのは主体による《生きられた体験》なのである。建築家ができることは、安易に想像できる境界の操作ではなく、生きられた体験を膨らませることである。

箱を動かすあなたという存在壊れた光の世界

その情緒はあらゆる現実を作りかえ、その熱情は局面および事物の意義と形態を非凡なるものに高め、その休みなき形成衝動は自己の周囲の一切を形象と構成に変ずる。

ディルタイ『体験と創作(上)』

基本設計が終わった段階で、彼は住宅の完成を楽しみにしていた。早く箱を動かしたくてもどかしいようだ。この住宅は《箱を動かすという一枚の体験》を膨らまして設計したものである。箱を動かすという生きられた体験を種として、すべての構成要素が絡みつくように育てられた。生きられた体験をするたびに、周囲の一切にリズムと秩序が与えられ、現実は日々つくり替えられる。しなやかに響きわたる創造的精神が空間を満たす。

想像もできないほどの空間が現われ、そして消えてゆく。住まい手は、空を探し、部屋をつくり出し、風景を転がす。空間は変様を繰り返し、住宅内部はエネルギーに満ち満ちてゆく。その変様体は鮮やか逞しく、それでいて繊細でか弱く、取り巻くすべてのものを巻き込んでゆく。人間は観察者である以前に、建築のなか住まう力を持っている。目指されるべきは、景観ではなく風景であり、囚人ではなく詩人なのである。

これを可視化するならば光のイメージとなるだろう。「要するに色とは壊れた光である」とある有名な批評家の言葉を想う。壊れた光をひとつひとつ拾い集め、自分の手元に引き寄せながら紡いでゆく。壊れた光を集めるほど白へと近づいてゆく。絵画のキャンバスのような背景として乾いた、空虚な白などでは決してない。どこまでも反響する深い白。印象派が追いかけた白に向かって体験を加速させるのである。箱を動かすという生きられた体験が、変様しながらも、統一して、そして調和した世界を創りだす。

RGBのドローイング

体験の軌跡をRGBで描いたもの

CMYKの絵画では色が重なるほど絵具は黒く滲んでゆく。RGBの絵画では色が重なるほど絵具は明るく輝いてゆく。壊れた光は体験によって集められ、白さを増してゆく。あの鮮やかな一瞬の世界。

こうして獲得された世界は、建築家によってあらかじめ決められた予定調和なものではなく、住宅の中で住まい手が自身の手で掴み取ったものであり、生き生きとして、想像力に満ち溢れている。住まい手の背中を押して夢をひろげる空間。中心や構造があるわけではない。現象だけを見るのではない。ただ、ひとつ確からしいのは箱を動かすという体験、そして体験をしているあなたという存在である。私は、生きられた体験を膨らます建築にかけてみたい。

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プロジェクトカード

Texts > House for boxesで考えたこと

𓁿  Information

期間   2020年4月
種類   エッセイ
著者   山地大樹

date   Apr.2020
type   Essay
author   Daiki Yamaji

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